ナタリー・バイの美しい疾走は、永遠。
『勝手に逃げろ(人生)Sauve qui peut (la vie)』というのは、
自分にできるやりかたで人生を救う(あるいは「命拾いをする」)
ということだ。
「ゴダール全評論・全発言 Ⅱ 訳:奥村 昭夫(筑摩書房)」
Posts by 佐藤裕樹 Yuki Sato
国立能楽堂で狂言『引括』と能『弱法師』を観てきました。
『引括』は口やかましい妻をあの手この手で里に帰らせようとするが妻の方が一枚上手だったという話。短いけど分かりやすく狂言らしい可笑しさ。
『弱法師』は幼い頃に親に捨てられ、盲目となり物乞いをして暮らしていた俊徳丸が父に巡り会うという話。今月の国立能楽堂は東近美の『下村観山展』とのタイアップ企画で、観山に所縁の演目を特集しているのです。観山は能楽師の家に生まれ、能にまつわる絵画が多く、その代表作が重要文化財に指定されている「弱法師」。ずっと能の『弱法師』を観たかったので、良いタイミングで絵と能を続けて観られました。
<私は好きだ・私は好きではない>。そんな事は、誰にとっても何の重要性もない。そんな事は、一見して無意味だ。とはいえ、それらすべては、<わたしの身体は、あなたの身体と同じではない>ということを意味している。このように上の空でつけた網かけのような、好きなものと嫌いなものの無秩序な泡のなかで、身体の謎のかたちが少しずつ明確な形をとって、暗黙の合意または苛立ちを呼ぶようになる。ここで身体による威嚇が始まり、自分を<寛大に>受け入れてほしい、共感できない悦楽や拒絶には沈黙して、礼儀正しくしてほしいと他者に強いるのである。
『ロラン・バルトによるロラン・バルト 訳:石川美子(みすず書房)』
ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋 訳:川本静子(みすず書房)』
私はこの講演の中で、シェイクスピアには一人の妹がいたと申しました。でもシドニー・リー卿が著したシェイクスピア伝の中で彼女を探したりなさらないで下さい。彼女は若くして死んだのですー可哀そうに、一語も書かないで。彼女は、居酒屋エレファント・アンド・カースルの向かいの、乗合バスが現在停まるあたりに埋められています。ところで、一語も書く事なく、十字路に埋められた、この詩人はなおも生きていると、私は信じているのです。彼女は、あなた方の中に、私の中に、それからお皿を洗ったり子供達を寝かしつけている為に、今夜ここにはお出でにならない他の多くの女性達の中に生きているのです。偉大な詩人は死ぬ事はないのですから。
素晴らしかった豊田市民藝館。とりわけ芹沢銈介のガラス絵画のマチエールが本当に美しかった。民藝に触れると結局本当に優れているのはこういうものだよなと説得されてしまう。真の意味での粋というか、センスしかない。あと現代美術が取り組んでいることをふつうにやっているよなと
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『歴史は女で作られる(1956)』を見ました。莫大な製作費を注ぎ込みながら、興行的に大惨敗し、オフュルスの意に反してズタズタに再編集された呪われた映画として名高い作品ですが、2008年にようやく本来の形に修復されて不死鳥のごとく甦りました。ゴダール監督『イメージの本』のラストで引用された『快楽』仮面篇の断片をみた辺りから「これどこか能のようだ」と考え、先日『たそがれの女心』を再見し「これどこか班女のようだ」と思い、今回『歴史は女で作られる』を再見したら、とあるシーンで能面(翁面と女面)がデザインされたタペストリーが壁に飾られてました。劇の探究者たちの出会い。
ポール・トーマス・アンダーソン監督が、
マックス・オフュルス監督『たそがれの女心(1953)』について語る。
www.youtube.com/watch?v=oumV...
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『たそがれの女心(1953)』を見ました。『輪舞』の一挿話・『快楽』のメゾン・テリエ篇に続き、ダニエル・ダリューと共に、そして『たそがれの女心』はダニエル・ダリューに捧げられた特別な作品といえるでしょう。美しさの絶頂にあるダニエル・ダリューと、夫を演じる名優シャルル・ボワイエ、外交官を演じる映画監督としても著名なヴィットリオ・デ・シーカによる、優美な恋の戯れに、ため息が漏れる。映画史上屈指のファーストシーン、その映像の見事さは勿論の事、フレーム外から聞こえるダニエル・ダリューの艶やかな声が、波紋のように映画全体へと響き渡ってゆく。時のなかに、消え去るように。
やはり人が歌い出すとき、何かが生まれるのが映画の原理なのでしょうか。私も早速読んでみます!
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『快楽(1952)』を見ました。この空前絶後の大傑作も、公開当時「甘ったるいウィーン菓子のようだ」と叩かれ、映画批評家アンドレ・バザンも「一本の映画にあんな無駄金を使っている」と酷評したという・・・。まぁ人間はあてになりません。モーパッサンの短篇『仮面』『メゾン・テリエ』『モデル』の独立したオムニバス映画でありながら、なぜか全てが流れる様に繋がってしまう驚異的な映画です。疾走する燕尾服を纏った男が大慌てでダンスの輪に加わる『仮面』の冒頭から完璧で、この時代のオフュルスは、映画に登場する全人物の運動の線が、そして舞い降りる天使の線が見えていたとしか思えません。
なるほど。清水宏監督と同じく、全く「福祉映画」ではないですね。家族で出掛ける車中のシーンとか最高ですよ!いま伊勢監督のインタビューを読んでいたら、なぜか未読だった蓮實さんの『見るレッスン 映画史特別講義』で、『えんとこの歌』を「ひどいショットが一つもない」と賞賛してる様です。さすがです。
kobe-eiga.net/webspecial/c...
それは本当に残念です。『奈緒ちゃん』は「映画として」非常に優れていると思うのですが、この「映画として」というのがなかなか伝わらない・・・。私が伊勢監督の映画を知ったのは、たしか故堀禎一監督の発言だったはずです。2021年アテネフランセ開催の『堀禎一そして/あるいは現代映画』でも、小津・ロッセリーニ・リヴェット・ネストラー・ルソーと並んで『えんとこ』が上映されてました。こういう試みは本当に素晴らしいと思います。どうしても「知的・身体的障がい」の「ドキュメンタリー」みたいな枠組になってしまう。『奈緒ちゃん』ほど優れたアクション映画は、そうそうないと思っています。
こんばんは。伊勢真一監督特集が開催中なのを、今更ながら知りました。私も『奈緒ちゃん』大好きなんです。『ルーペ ―カメラマン瀬川順一の眼―』も上映されるようですが、瀬川さんの撮影が本当に素晴らしい。
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『ディヴィーヌ(1935)』『輪舞 (1950)』を見ました。作家コレットの原作・脚本による『ディヴィーヌ』ですが、土を耕す様子を捉えた田園風景の中に突如、煌びやかなドレスを見に纏い、猛スピードの車を運転する女性が現れる映画の冒頭から熱狂的なエネルギーに満ち溢れています。田舎からパリに出て踊り子となったディヴィーヌの反抗は、遺作であるローラ・モンテスの原型のようです。「何者でもない誰か」を語り部にして、数珠つなぎの出会いと別れを次々に描いてゆく『輪舞』は、この後に撮られる晩年の大傑作を予見させます。甘美な回転木馬の円運動は、まさにオフュルス映画の象徴です。
『映画をめぐるディアローグ: ゴダール/オフュルス全対話』
翻訳:福島勲 (株式会社読書人)
名著です!
『たそがれの女心』の筋は貧弱で、ヴィルモランが書いた短い小説ですからドストエフスキーとはレベルが全然違います。しかしオフュルスがその小品から作り上げた作品は全く別物です。フラゴナールの<閂>が、恋人達が抱き合う為にドアの鍵をかけるだけの絵であり、ゴヤの様な深刻な主題を持ち合わせていないのに、純粋絵画になってしまうのと同じです。オフュルスには純粋映画とも言うべき何か、その当時実験映画と呼ばれていた何かがあります。現在そうした何かは消滅してしまいました。(オフュルスには)文学がないのです。台本や台詞が存在しないのではなく、映画の前提として文学を先行させるという考えがまるで無いのです。
ーゴダールー
『映画をめぐるディアローグ: ゴダール/マルセル・オフュルス全対話』
翻訳:福島勲(読書人)
名著です!
『青髭』鑑賞。クロード・シャブロルのフィルモグラフィーでもなかなか異質な作品で、脚本は何とフランソワーズ・サガン。男性がシリアル・キラーで女性を殺害していくのは『気のいい女たち』や『肉屋』でもお馴染みだけど、主人公のランドルはユーモラスさのある飄々とした好人物で、これを涼しい顔で撮るシャブロルが一番恐ろしい。次々と女性を追うランドルを捉えた移動ショットは喜劇性に奉仕する形で使われてたり、所々で入るストップモーションが持つ禍々しさ、女性とのカットの後に煙突の煙のショットだけで終わらせる極端な簡略性など歪な実験性から、後半の裁判劇のブラックユーモアと驚きの連続だった。
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『無謀な瞬間 (1949)』『魅せられて (1949)』を見ました。ナチスドイツの台頭と第二次世界大戦の勃発によりアメリカに亡命し制作されたオフュルス解釈によるフィルム・ノワール映画ですが、どんな題材を撮っても気が付けばオフュルス的な時空間へと誘われてゆく。娘の殺人を庇う母の物語から、その母に殺人をネタにゆすりにやってきた男が心を奪われてしまう恋物語へと移行するというエレガントな荒唐無稽。ハワード・フューズをモデルに金持ち権力者の狂気を描いた『魅せられて 』ほど今日的な作品はありません。世界を憎悪するロバート・ライアンが、トランプとネタニヤフにしか見えない!
シネマヴェーラ渋谷にてオフュルス監督『恋愛三昧(1932)』『優しい敵(1936)』を見ました。娘の婚約式に現れた亡くなった父・母の浮気相手・母の初恋の人という幽霊トリオが縦横無尽に動きまわる『優しい敵』の冒頭から即座にオリヴェイラ監督『訪問、あるいは記憶、そして告白』が思い浮かびます。誰もいないはずの門扉がフッと開くことで目に見えぬ存在を描き、過去と現在が走馬灯の様に流れゆく。映画史上の大傑作『恋愛三昧』の先見性には驚嘆するほかありません。ルノワールやルビッチのように「劇の中の劇」を探求した偉大な作品で、『気狂いピエロ』のラストは、『山椒大夫』と共に『恋愛三昧』への賛辞だと私は考えてます。
このフォーサイスの言葉は、
まるでマックス・オフュルス監督の映画について語っているかのようです。
身体が倒れるとき何が起こるのか、私はそれを長年分析してきました。あなたの意識がダンスの行為から逸するとき、あなたは安全ではない筈です。ところがそこにあなたを倒れ傷つくことから守る何らかのメカニズムが働くのです。大げさかもしれませんが、私はそれをエンジェル効果と呼んでいます。ダンスの行為を意識しなくても、いや意識しない事によって初めてあなたは安全でいられる。
ダンスをする事とは、こうして恐怖を失うことの、
したがってまた希望を失うことの、体験なのです。
『フォーサイス 1999(NTT出版)』
ですよね!信じられない!それでいうと日本でも淀川長治先生が毎週テレビでお話をされていましたので、とてつもなく贅沢な時代があったのですね。
2024年京都賞受賞の感動的な講演『ときに、わたしは花々にキスをする』です。「このような話をするのは生まれて初めて」と語りながら、如何にしてフォーサイスが振付を独学したかを子供時代に遡ってゆくのですが、あらゆるエピソードが魅力的で、5歳の頃アステアになりきって空想のジンジャー・ロジャースと踊っていた事や、13歳の頃にTV放送されたクリス・マルケル監督『ラ・ジュテ』(何と!)に大きな影響を受けた事、出会った時80歳を超えていたダンス界で全く無名のボスコビッチ夫人という女性から革命的アイデアを授かった事など、素晴らしいお話ばかりです。 www.youtube.com/watch?v=04ev...
単純に役立つかどうかという指標があまり好きではない、という話かもしれない。「ファインマン物理学 Ⅲ」で紹介されていたファラデーのエピソードが、すごく好きなんす。
いえいえとんでもございません。髙島野十郎と白井晟一はどこか孤高という感じなので、会場を含めて良い展覧会になるのではないでしょうか。
新国立劇場にて『フレンズ・オブ・フォーサイス』を観ました。傑作でした。ウィリアム・フォーサイスと、ラフ・"ラバーレッグズ"・ヤシットによる作品ですが、全ダンサーが「振付」とクレジットされてますので、多様なスタイルをもつダンサー達との協働作品であり、舞台も今まさに作られているかの様なエネルギーに満ちていました。四方を客席に囲まれた舞台に、ダンサーの身体と、最小限の音楽だけ。今回劇場で観てよかったのは、ダンサーの呼吸を肌で感じられた事です。「息の詰めひらき」の重要性を改めて実感しました。豊かな即興性が感じられたので、計3回観た友人に確認したところ、厳密に振付されてるとの事。この二つは共存可能です。
素晴らしいですよね。建築家・白井晟一による建物は東京にもいくつかありますが、昨年佐世保に行った際に代表作の一つ「親和銀行懐霄館」を見てきましたが、やはり異彩を放ってました。ただその後ろに高層マンションが建てられていて、あー残念と思いましたね。
おはようございます。とんでもございません。私も松濤美術館が好きなので、嬉しいです。何よりシネマヴェーラ渋谷やユーロスペースから徒歩5分程というのが、素晴らしい。