Advertisement · 728 × 90

Posts by 城輪アズサ

本作では他方、さながらblenderの作業画面めいて世界の全体を映し出すような演出が頻出する。カメラは物体を貫通し、この世界の立体性を、全体性を余すところなく映し出そうとする。しかしそれは決定的瞬間を描くには至らない。物語における悲劇(それはPG12というレイティングを逸脱させるようなものだろう)は決して映らない。それはこの映画の題材、"病み"と"エモ"が文化の担い手に対して行っている隠蔽や抑圧と重なりはしないか、とあえて倫理的な言い方をしたくなる。なるほど本作の擬似ドキュメンタリーもまたそうした美学に倣うものではある。しかしそのことは、創作論的なレベルでの告発として読めるものではなかったか。

3 days ago 0 0 0 0

終盤のカラオケでのくだりはもちらんそうなのだが、個人的に一番食らってしまったのは音楽の使用だった。一ノ瀬ワタル演じる「KAMI」は《ラザニア》を切々と弾き語るが、そのフォーク的な歌唱は物語内容を考えればクレバーな偽装であって、その意味できわめて露悪的であると言うことができる。それは窓辺リカ(作詞は監督と両名)によるエンディングもそうで、いよわ的な表現は現代の"病み"カルチャーそのものの露悪的な(しかしそれゆえに切実な)パロディに聞こえた。こうした(おそらくは祈りにも近い)カルチャーの全体が、軽薄で空虚な悪意によって浸され、使用されているという現実にわれわれはいる。その絶望をまだ受け止めきれない

3 days ago 0 0 1 0

長久允『炎上』(2026)、かなり食らってしまった。トー横を舞台にした現代劇……というだけであらゆる文脈が乗っかってしまう言説環境にわれわれはいるわけだが、本作はそれを正面から引き受けるように擬似ドキュメンタリー的な構図や撮影手法を積極的に用いている。人物の顔や姿ははっきりと映らず、カットあたりの説話構造(=コンポジション)は引き裂かれ、一人称の語りは撮影者不詳のインタビュー映像によって多層化される。こうした技法は作中でクラシックに対する冷淡な言及があることを踏まえるなら、庵野秀明や岩井俊二のデジタルシネマに対するある種の挑戦と理解することができるかもしれない。しかしここで現実は肯定されない

3 days ago 0 0 1 0

シャーマンにおいて〈自然〉の経験はかけがえのないものであり、根本的に伝達することが不可能なものだが、その絶対的な単独性から『ハムレット』という物語化=言い換え(パラフレーズ)によって解き放たれるラストは圧巻。本作は演劇というモチーフに沿うようにきわめてストレートな感情表現が頻出していたように思うのだが(製作のスピルバーグの仕事かもしれない)、ラストの笑いは屈曲している。ここで彼女は、「かけがえのなさ」は手放せる、と体感したことで(演劇において抽象化された経験はたえず共有される)〈自然〉に攫われた子どもを笑って送り出せるようになったのだ。

3 days ago 0 0 0 0

クロエ・ジャオの映画、というより『ノマドランド』『エターナルズ』においては自然/人工という、われわれにとってきわめて馴染み深い対立が複雑化されて提示されていた。今作でそれは現実の自然/虚構の自然=書割として導入されているのだけど、後者には前者と同じように黒い穴が、人間を攫うものの気配がある。しかしそれはベタなレベルでは単に舞台と楽屋を分つ穴にすぎず、そのあっけなさこそが本作では救済にかかわってくる。「かけがえのない」経験ではなく、抽象化(=物語化)され世界の中で均質化した模倣可能なものにされた経験こそが、均等に人間を蹂躙しながら、宿命そのものであるかのように振る舞う〈自然〉に抗するよすがになる

3 days ago 0 0 1 0

『ハムネット』(2026)、これまでのクロエ・ジャオ映画をしるしづけてきたアメリカ的な開かれた風景に対して、本作は一貫して中世の森や都市(閉ざされた風景、と言うべきだろうか?)を映していて、そのことが本作に独特の存在感覚を刻んでいるように思う。シャーマン的な主人公が出産に際して森に穿った穴、川の氾濫、そして疫病と「死神」。本作で閉塞的な自然=風景は人間をその秩序から切り離して攫っていく。そのことは可視性の外側にある黒い穴によって象徴的に描き出されるのだけど、本作ではそうした残酷さにフィクションを対立させているという点で、これまでの作品をより徹底化したものとして見出せるか。

3 days ago 0 0 1 0

キアロスタミ『桜桃の味』(1997年)、死に向かう主人公のもつ仄暗い強制力が底冷えのするような魅力として迫ってくる、ざらついた映画だった。荒涼とした風景の中を主人公は亡霊のように、しかし妙に決然と彷徨っていく(伸びた影を重機が蹂躙する印象的なカットがある)。ただ阿部和重が言うように物語は(プロットと言う意味でも)曲がりくねっていて、目的に対して無限後退を繰り返しているように見える。単にどこにも辿り着かないのではなく、あてどない・間延びしたやり取りの中で果てしなく遠ざかっていく、というような

3 days ago 0 0 0 0

言説のシステム、都市というシステムが、あらゆる社会批判・思想的な擁護/批判をすり抜けるかたちで、空虚で矮小、非-属人的な(ここで佐藤二郎は特定の「誰か」ではありえない)「悪」を自動生成してしまう、ということ。その恐怖。ここにあるのはそうした存在感覚であり、その意味で、「世界精神方の悪役」を完成させてしまったかに見える『ダークナイト』のジョーカーの後に(映画として)語られるべき物語だったのではないかと思う。ただ本作は、「悪」を設定しながらそれに相対するロジックを用意することには「とりあえず」挫折しているように見える(それはどこまでもクリシェに過ぎなかったのではないか?)。続編に期待。

1 week ago 0 0 0 0

この物語においてすべてを計画した黒幕は、不本意ながら死を迎えてしまう。無論、それは彼のテロリズムに『パト1』的な無謬性を与えもしたのだろうが、事は、佐藤二郎演じる無名のテロリストに簒奪されることによって、むしろその不気味さ、革命的なポテンシャルを増しているように見える。真犯人が沈黙していれば、そこにはいくらでも意味を重ね合わせることができる。しかしここで、(言葉の本当の意味での"模倣犯"としての)犯人は「語りすぎて」しまう。そしてその語りは、黒幕の言葉やその他生臭いクリシェ的な言葉のコラージュにすぎないところで、確信犯的に空虚なものだ。この空虚さはこれに向かい合わざるをえない人間を宙吊りにする

1 week ago 0 0 1 0
Advertisement

『爆弾』(2025年)かなり良かった。フィンチャー『セブン』のジョン・ドゥを思わせる「世界精神型の悪役」(伊藤計劃)を軸としたポリティカル・サスペンスなのだが、ここで「悪」は二重化されている。一方にはすべてを計画した「世界精神」の体現者がいて、もう一方にはそれを模倣する正体不明の道化がいる。これを今日の、拡大自殺的なものも含めた広義のテロリズムが置かれている状況──ただちに生臭い社会的・思想的文脈を仮託され、その革命的なニュアンスは閉ざされた自意識の言葉によって抑圧されてしまう──の表現と見ることは可能だろうが、そうした出来合いの解釈以上に不気味なものがこの映画の画面には現れていたようにも思う

1 week ago 0 0 1 0

『レオン 完全版』(1994年)今更ながら観た。冒頭から極端なクロース・アップが立て続き、映画全体を通してロングショットは抑制される。そのことは本作をきわめて私秘的に、仄暗い欲望の箱庭にしていると思う。妻を持たず(というか、失い)、子を持たないレオンは、その技能と愛を少女に吹き込むことで、自らの遺伝子を継ごうと試みているように見える。ここでは復讐や自らを閉じ込めるシステムからの解放は二義的なものになっていて(実際、そこに物語的な解決は与えられない)、きわめてプリミティヴな継承の欲望だけが仄暗く際立ってゆく、というような。こうして考えると、相田裕のガンスリはきわめて本質的な本作の批評だろう。

1 week ago 0 0 0 0

『天使の恍惚』(1972年)、正直に白状すれば若松孝二の左翼モチーフの映画はこれが初めてなのだが、かなり良かった。粗く図式化すれば、ここでは赤々と燃え立つ幻影に支えられたモノクロの革命(=爆弾の奪取)が、物語の大半において個から剥奪され、革命は体系化された組織と新聞のインクのシミになり、あとには密室のベッドに横たわる不能者としての革命家が残っている。イメージの世界において赤とは炎と血だが、モノクロの映画的画面において前者は白に、後者は黒に属し、決して交わることがない。そしてすべての個は黒々とした鮮血を垂れ流して死にゆくことになる。性はそのふたつを繋げるが、決して調停することがない。

3 weeks ago 0 0 0 0

小津安二郎の『麦秋』(1951)観た。まあ今とはかなり時間感覚が違うのだろうが、28歳という人生の盛りに翳りが差し始める時期=秋の始まりにあって子ども(=春)や十全な身体機能を失った老人(=冬)はきわめて不気味なものとして映らざるをえない……みたいな象徴的な読み解きを頭の中でこねくりまわしていた。決定的ななにかが過ぎ去りつつあることは、しかし画面が雄弁に語っている。幾何学的な画面構成、フレームインの仕掛けとして印象的に機能する扉、遠方の(過ぎ去った歴史としての)死を示唆するように壁へ掛けられた服。映画的技法の豊かさについての言及は既出も既出だと思うが、やっぱりすごい。

3 weeks ago 0 0 0 0
Dancing with my phone
Dancing with my phone YouTube video by HYBS - Topic

music.youtube.com/watch?v=Sk-o...

3 weeks ago 0 0 0 0
kettle
kettle YouTube video by TIDAL CLUB - Topic

music.youtube.com/watch?v=zIFS...

3 weeks ago 0 0 0 0

絶滅的な革命のビジョン=未来への可能性は、「かくあらねばならない」という魔の囁きこそがもたらしたものだが、それはたえず個別具体的なロジックとのあいだに関係を取り結ばなければならないもので(当然、論駁もその水準で行われ、未来への可能性は革命論として語られる)、その点において上遠野の寓話的想像力とは対立するようにも感じる。「VSイマジネーター」のなかで笠井的な魔を的確に捉えた上遠野は、のちに異世界の「竜」や「世界一美しい死体」(=絶対的なもの)にその可能性を自らの死とともに語らせることで、個別具体的な生の生き延びの可能性を模索していった。ここには別の仕方での、鋼鉄の弾丸としての幻想への賭けがある

3 weeks ago 0 0 0 0

ここに現れている存在感覚を柄谷行人の漱石論とか村上春樹の捉える無意識の領域(=「やみくろ」)と並行的なものとみなすことはできるのだろうけど、やっぱり自分としては上遠野浩平と結び付けたい。矢吹駆の造形がブギーポップ的(EDとかでびる屋、オキジェンを想起させられるところもある)であることもあるが、それ以上に本作の敵は明らかに「世界の敵」だったことがある。この「敵」に対する論駁などはほとんど霧間誠一にしか見えなかった(むろん上遠野のほうが後出だが)。ただここにあるのは「可能性に善悪の区別はない」と言った地点からすら遥かに遠い殺伐とした現実認識で、それはほとんど独白のような長台詞にも現れている

3 weeks ago 0 0 1 0
Advertisement

笠井潔『バイバイ、エンジェル』(1979年)、古典的探偵小説のジャンルコードをを現象学的方法(と主張されるもの)で相対化するという形式上の革新を前提にしたうえで、その限界を指摘するところから始まるのが面白い。現象学的還元はたんなる思考上の操作ではなく生きられる仕方でなければならない、そしてその手がかりが簡単な生活(ラ・ヴィ・サンプル)あるいは生活(ヴィ)のなかにあるというのは、本作を規定するのがフランス語であることも相まってミシェル・アンリの生の現象学を思わせる。尤も、ここで「魔」と呼ばれているもの、諸個人をかくあらしめる必然性は果てしなく暗く、血塗られていて、惨苦に満ち溢れている

3 weeks ago 1 0 1 0

ただ物語はそうした悲痛なトーンを打ち破る身体、とりわけ基底的なところで機能する「生活する身体」を肯定することで成立しているように見える。彼女たちは「まず」立身出世的にフランスへと出てきた親世代の夢(の終わり)を拒絶することで生活を始めるが、その起点こそがつねに彼女たちを助けていくことになる。ここには生活/夢のヒエラルキー的な対立というよりは、むしろ生活(=経済的な領域を身体において我がものにすること)がたえずその夢を支えるという構図があるのではないか。ここには無上の肯定性があり、その意味において堅実で誠実だと感じる。

1 month ago 0 0 0 0

描かれたものとしての(そして最終的に描かれるものとしての)千鶴の身体は、作中で自己言及されるように薙刀道の動作性とバレエの超越性に引き裂かれる。その境界線は生活と夢を分極させるものでもあるだろうが、薙刀が「機能する身体」にかかわる以上その動作性はつねに社会的なもの以外ではありえないので、この分極は実際にはより複雑な構成をもっていると言うべきだろう。千鶴にとってのバレエはベタには輝かしい夢だが、メタには社会的(時代的)なものへの抵抗として機能する。しかしその抵抗を下支えするのもまた時代である(彼女をバレエ団に導いたのは情勢に由来するの欠員だった)ところで、問題は陰翳をたたえている、といえる

1 month ago 0 0 1 0

『パリに咲くエトワール」(2026年)、きわめて堅実で誠実なアニメだと感じる。飛翔=超越の芸術としてのバレエは、そのまま妖精=鳥=(西洋的)想像力を追う日本アニメの想像力と重ね合わされる。本作のガールミーツガールはバレエを志す千鶴と画家を志すフジコに分極化されているように見えるが、テーマ批評的な語り口を行えば、フジコは画家(=静的なイメージ)の探求者というよりはむしろアニメ(=動的なイメージの連続)にその才能の核があり(その絵はつねに連続したデッサンとして提示された)その意味においてこの映画全体をある特別な位置からまなざす観測者にほかならない。彼女は超越する身体をそのままに描く。

1 month ago 0 0 1 0

光に自意識が宿っている。何の話かといえば『花緑青が明ける日に』の話なのだが、こうした仕方で絵を(というか光彩感覚を)信じることで成立しているアニメ映画を自分は見たことがなかった。ここには物語を平滑に語るための時間間隔も細やかな人間関係もなく、白熱した夏の終わりの光だけがある。それは時間の一切を規定しながら、感傷とも怒りともつかないかたちでただ鮮烈に漂っている。新海誠のように光景と実存が紐帯を結ぶのではなく、ただ光景(と状況)だけがあるような映画的時間。勿論撤退戦としてのテロリズム、みたいな物語の状況にも触れたいのだが、この異様な画面と間隔に触れずして何かを語ることはできないという気がする。

1 month ago 2 0 0 0

渡邉大輔『イメージの進行形』(人文書院、2012年)、重要なことを言っていると感じる。これをわれわれは「ゼロ年代批評」の遺産としてではなく、来るべき(だった)「テン年代批評」の開始点として読み直すべきなのだと思う。IT革命以後というよりはソーシャル・メディア以後の洪水のような映像群(=イメージの例外状態)を、ファウンド・フッテージ的断片の結節点という仕方で「作品」として捉え直し(「映像圏」というタームで把捉される)、さらにそこからフィルム・ノワールをはじめとする映画史上の転換を読み替えながら、最後にはそれがありうべき抵抗のモデルへと変幻していく。今読むとTwitterへの言明は予言的でもある

1 month ago 0 1 0 0

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』(光文社新書、2007年)、タイトルに惹かれて読んだが、掲げられている主題を徹底して掘り下げるというよりは、ラカン派社会学を軸に後期近代以降の主体論とかそこで前提される社会観(社会学の領域)・人間観(精神分析の領域)を整理するという内容でかなり参考になる。やや教育的で共同体(保守)主義に読めすぎるところはある気がするが、価値相対主義や流動化の中でそれでもなお残り続けざるを得ない確固たるものの領域、生活的身体の(=社会学的な意味での存在論的な)領域について考えた同書の論理構成は、その時代性に反して依然として有効なのではないか、と素朴に思う

1 month ago 0 1 0 0
Advertisement

待川匙『光のそこで白くねむる』(2024年)、平穏な感想を激しく引き裂くような懐疑と暴力、死の影が凝る凄まじい小説でめちゃくちゃよかった。死者の語り(を偽装する多重化された自分の声?)によって、記憶がたえず訂正されていく。そこでは被害/加害の別が溶解して、自らによる暴力の行使が生々しい迫力を放っているのだが、それはその存在感を保ったまま、同時に、いかなる記憶とも現実とも紐帯を結ばず浮遊している。この凄烈な現実認識のなかである家族の決定的な破綻が明らかになり、罪の所在が露わになっていく構成は見事だが、それもまたやはり記憶や現実とかかわりあうものではなく、すべては宙吊りにされている。その凄まじさ。

1 month ago 1 0 0 0

もちろん架空の創世神話や架空の惑星を舞台にしている(と思われる)ので宗教的・政治的な生臭さは締め出されていて、しかしそのことによってむしろある種の時代性に制約されている感じは拭えない。俗流終末論、架空年代紀、エコロジー、ネオンの煌めく街とガジェットとしてのバイク(しっかり仮面ライダー乗りもしている)。それはどごでも80年代的なパロディの様相を呈していて、舞台が現実とのあいだに紐帯を持たないがゆえにある種の生臭さを漂わせているような気もする。

1 month ago 1 0 0 0

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)ようやく見たが、全盛期ガイナックスのほとんど狂気的なディティールの描き込みに圧倒されたのはもちろんのこと、きわめてアイロニカルなストーリーテリングで予想外に良かった。有用性がなく、税金や予算を食い潰すだけのロケット開発(に人生を賭ける男たち)、という基本的な設定は、素朴に(それこそ岡田斗司夫的に)〈考察〉すればアニメ製作の比喩といえるだろうが、その開発自体が産業界の利権によって下支えされ、戦時下のプロパガンダに利用され、最後には国際政治上の駆け引きの駒にされる。最終局面のカタルシス(ロケットの発射)はそうした権力の網目への美学的な抵抗としてあるだろう

1 month ago 2 0 1 0

そこにおいて彼女たちは、この果てしなく息苦しい日常を引き裂くことができる。もちろんそれはフィクショナルな奇蹟にほかならないのだが、いま語りうる希望とはそのようなもの以外ではありえないだろう。最終局面、白瀬は自らの書き続けたメールが氷点下の南極において「奇蹟的に」届いていたことを発見する。しかしそれは受け手を喪失しているという点で、同時に届かざるものでもある。彼女の彼方への言葉は、余剰としての言葉は、届かざるものとして届いていたのであり、その事実を確認することによって、これまでのすべてが閾において意味づけられる。日常に踏みとどまりながら、それを引き裂くことができるようになる。それは希望だ。

1 month ago 1 0 0 0

死以外に彼方=生の一切を意味づけるような輝ける一瞬は考えられないが、テン年代以降死は端的な事実、マテリアルな日常になってしまっていて、そこにおいては意味づけが飽和していることによって不在である。それは同作では母親を生/死の両面にわたって「同じように」待ち続けるしかない白瀬の設定において明瞭に取り込まれた、時代の想像力にほかならない。このマテリアルな事実性を引き裂くためにこそ、彼女は彼方なき現実の彼方、具体的対象としての南極に向かわねばならなかった。そしてキマリの存在は、そうした白瀬を規定する状況一般がすでにわれわれの主体の前提になっていることを告げている。「遠い場所」とは世界と彼方の閾であり、

1 month ago 1 0 1 0

『宇宙よりも遠い場所』(2018)の基本的な下地になってる無目的な繋がり=日常系的コミュニティの息苦しさを合目的的コミュニティで相対化する、しかしそのコミュニティもまたある面では無目的的(自己目的的)に機能する、というのは、入り組んでいるようでいて、テン年代の文化状況に対してきわめてアクチュアルなのではないか、と今更ながら思う。彼方はない、が彼方に至らねばならない、というワナビ的リアリズムにいかに向き合うべきか、ということ。それはエピソードのレベルでは労働と日常の重ね合いによって、プロットのレベルでは具体的な「約束の場所」(新海誠)を立て、キャラたちを「正しく帰る=変える」ことで果たされている

1 month ago 1 0 1 0