《名所江戸百景・王子装束ゑの木 大晦日の狐火》 歌川広重 安政4年(1857) "解説 シルエットになった小高い丘にある王子稲荷は、関八州の稲荷の総元締。大晦日の夜、近くの大榎のもとに何千という狐が集まり、この木を飛び越えて高さを競いました。狐たちは宮廷女官の装束に着替え王子稲荷に向かったとされ、大榎の跡は装束稲荷社となっています。"
《名所江戸百景・王子装束ゑの木 大晦日の狐火》
歌川広重
安政4年(1857)
《名所江戸百景・王子装束ゑの木 大晦日の狐火》 歌川広重 安政4年(1857) "解説 シルエットになった小高い丘にある王子稲荷は、関八州の稲荷の総元締。大晦日の夜、近くの大榎のもとに何千という狐が集まり、この木を飛び越えて高さを競いました。狐たちは宮廷女官の装束に着替え王子稲荷に向かったとされ、大榎の跡は装束稲荷社となっています。"
《名所江戸百景・王子装束ゑの木 大晦日の狐火》
歌川広重
安政4年(1857)
橋本雅邦 《風神雷神》 明治二十八年(1895年) 広島県立美術館蔵 "《弁天》から約10年後に制作された作品。この間、雅邦のなかで西洋画的写実の方法は無理なく醸成されるが、一方で大和絵・琳派の画風なども研究して空間把握に新しい感覚を盛り込んでいる。これなど宗達の筆触を思わせる。ただ、躍動感のある構図や線、明暗法、色彩の画面全体での効果的使用は、やはり鑑画会での実験の賜物であろう。"
橋本雅邦 《風神雷神》 明治二十八年(1895年) 広島県立美術館蔵 "《弁天》から約10年後に制作された作品。この間、雅邦のなかで西洋画的写実の方法は無理なく醸成されるが、一方で大和絵・琳派の画風なども研究して空間把握に新しい感覚を盛り込んでいる。これなど宗達の筆触を思わせる。ただ、躍動感のある構図や線、明暗法、色彩の画面全体での効果的使用は、やはり鑑画会での実験の賜物であろう。"
橋本雅邦
《風神雷神》
明治二十八年(1895年)
速水御舟 《供身像(ぐしんぞう)》 大正十五年(1926年) "埴輪の伝説にみられる古代の殉死ということに想を得て描かれたと思われるが、武人埴輪の忠実な写生が残されている。それまでの客観写実には見られない形のデフォルメと平面性に留意した描法によって、より象徴的に描かれた供身像は、埴輪であるとともに人である。その不思議な微笑は暗示的でもある。題名の供身像は御舟の造語である。"
速水御舟
《供身像》
大正十五年(1926年)
NHK-BSで深作欣二が監督した『黒蜥蜴(1968年)』に三島由紀夫がでるっていうから見てたら
「美輪明宏演じる女盗賊・黒蜥蜴を巡って黒人青年と刺し違えたまま死んで、ビアズリーの絵が描かれてた背景と共に剥製になった裸の姿(我慢しきれずピクピクしてる)で出てくる」
っていう異様な場面だったから笑ってしまったわ。
11月25日は、
いい双子の日。
#いい双子の日
NHK-BS4Kでブレードランナーやってるが、ついつい坂本龍一が映画からセリフを引用したBroadway Boogie Woogieが頭に流れてくる。
youtube.com/watch?v=8Q_H...
twitterで80万閲覧されちゃった奴こっちにも流しますんで、青空だけの人も楽しんでくだちい
諸星大次郎作品で一番好きな短編は「海の中」で、タイトル通りどこからか流れてきた海の中を漂っている少年と同じくどこからか流れてきた少女が現世では得られなかった安らぎを海中の世界で感じながら出会い、結末でそれぞれ全く離れた場所での溺死者だった事が淡々と明かされるが二人は何故かしっかりと手を繋いでいた…というごくシンプルで短いお話なのだが、酷い生きづらさを感じていた頃に読んだので痛いほど心に刺さった思い出がある。
司馬江漢 《捕鯨龱》 1794(寛政6)年 Wikipediaより抜粋 "司馬江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者。中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。 源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したとも言われている。日本における洋風画の開拓者として重要な画家。" "見る者を船酔いに引きこむほどの臨場感。潮吹く瀬美鯨を追いつめ魚を打とうと肉迫するスペクタクル。現実より小さく描かれた前景の舟は漁師9人を乗せ、まことにあやうい。江漢が実景に接したのは1788(天明8)年12月16日、空は晴れ。寒風は雲を走らせ、波をうねらせていた。肥前生月島で体験した興奮を、時としては最高最新の西洋画で活写した。「鯨の波濤之中に飛動するを見る。即、筆を採り、其趣を写す。而今茲図す所者、西洋之画法を倣う」と迫真性(当時のことばでいう写真)を誇示した江漢の面目躍如たるものがある。"
司馬江漢
《捕鯨龱》より抜粋
1794(寛政6)年
Wikipediaより抜粋
"司馬江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者。中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。
平賀源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したとも言われている。日本における洋風画の開拓者として重要な画家。"
大河ドラマべらぼう、写楽が「あまりに真を画かかんとて」と大田南畝に評されたのを、源内が描いた蘭画の写実性と繋げ、さらに歌麿も絡んでいたというアクロバティックな解釈にしたの凄いなぁ。
そして、暗躍する治済に対して蔦重・定信チームが源内を生きているかのような策を練り動き出す様は映画「スティング」みたいでワクワクしてしまう。
わが葬式の曲、いまのところAlways Look on the Bright Side of Lifeが最有力候補です。
田中一村 《富貴図》 昭和四年(1929年) 個人蔵
田中一村
《富貴図》
昭和四年(1929年)
没後15年たった今敏を記念する記事でプロデューサーの方が当時の事を語られているけど、この部分にくすっときてしまった。
"丸山 落語も好きで、とくに古今亭志ん生(五代目)が好きなんですが、それは本人から聞いたんだけど、大友(克洋)くんがスタジオでいつも志ん生を聞いているんで好きになったと。今くんの語り口も、なんだかいつの間にか志ん生みたいになっていることがよくありました(笑)。"
vector-mag.com/feature/f-an...
こないだ撮った夕陽の爆発っぷりがなかなかだった。
速水御舟 《炎舞》 大正十四年(1925年) "大正九年を中心に集中的な写実的表現追究を試みた御舟は、その後中国の院体画を通して余白、詩情性といった写実の先にあるものを学び、静物画、花鳥画、風景画それぞれに新展開を見せた。 《炎舞》は、そうした御舟の新しい傾向を示す作品のひとつであるが、この作品のもつ特性は神秘性、幻想性、あるいは象徴性と捉えることが出来る。岸田劉生の言葉を借りれば「一種の神秘性と、崇厳感と、自然形象への愛」ということになる。近代日本画が辿ってきた道を振り返れば、表現の目的は歴史、宗教、装飾、そして自然とある一定の枠のなかで展開してきたが、この作品で御舟が写し出した世界はまったく新しい絵画の可能性を示しているといえる。 御舟は大正十四年の夏、軽井沢の別荘に滞在して自然の中に暮らし様々なものを写生していった。蛾の写生も数多く残しているが、いずれも緻密で正確な素描であり、《炎舞》の背後にも徹底した写実精神があることが窺われる。それに対して炎の表現は、すでに多くの指摘があるように仏画や古絵巻に現れる火焔に通じる様式性をもっている。御舟は軽井沢て毎晩焚き火をしてはその炎を見つめたというが、炎それ自体の写生は残っていない。《炎舞》の火炎には火元がない。吸い込まれるような深い闇のなかに突如浮かび上がる炎と、それに群がり飛び我が身を焼く蛾の舞が、なんら現実感を伴わないのは炎のイメージがぎりぎりまで抽象化されているからである。"
速水御舟
《炎舞》
大正十四年(1925年)
桜並木に紅葉がついてきて秋らしい景色になってきたな。
カットした柿を盛りつけた小皿の写真。 白い小皿に小さく切られたオレンジ色の柿が3切れ乗っている。小皿にはハリネズミのイラストが散りばめられてる。
柿食えば
やる気無くなり
もう十時
梶原緋佐子 《暮れゆく停留所》 大正七年(1918年) 京都市美術館蔵 "緋佐子は、菊池契月に学ぶ。これは、第1回国画創作会展に出品し、選外作となった作品である。その後、帝展に転じ、第2回帝展以降、官展を主な発表の舞台とする。大正期には、生活感ある庶民の女性を写実的にとらえた作品を制作した。"
梶原緋佐子
《暮れゆく停留所》
大正七年(1918年)
【テレビ放送📺】
タルコフスキー監督作「惑星ソラリス」明日NHK BSで放送、極限状態での人間描くSF
natalie.mu/eiga/news/648525
#アンドレイ・タルコフスキー
そういえば、ハンバートハンバートは昔に友部正人さんと一緒にライブやったのを見たことがあったなぁ。
MCでハンバートのギターの方が「友部さんは...The Bandはお好きですか?」って、はにかみながら聞かれて友部さんが
「もちろん。とくにリチャード・マニュエルが好きです。」
みたいに話されてたのが印象的だった記憶が。
毎回聴いてるけど、ばけばけOPのハンバートハンバート聴き飽きないなぁ。詩も良いし、アレンジで使われるハモンドオルガンの響きが沁みる...。
youtu.be/UYm931KoH6g?...
ばけばけ・わるきゅーれ
もうとっくにキレてるはずだろと思いながら見てた
小田野直武 《東叡山不忍池図》 1770年代 Wikipediaより抜粋 "小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。" 秋田県立近代博物館蔵 "前景に大きく花弁などのモティーフを描く構図は秋田蘭画の典型的手法で、その後方に広がる池辺の情景には西洋銅版画からの感化がみられる。この新しい風景表現は司馬江漢の銅版風景画の成立にも影響をおよぼしている。"
小田野直武
《東叡山不忍池図》
1770年代
Wikipediaより抜粋
"小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。"
朝ドラばけばけ、異文化交流ネタのショートコントっていうくだらない展開に笑わせてもらった。ほんと面白いなぁ。
beer…ビワーヒエーカマーコマーゴマー… \サワー/
#ばけばけ
伊藤若冲 《諸魚図》 明和三年(1766)頃 皇居三の丸尚蔵舘蔵 "同じ設定で異なる魚を描いた『群魚図」は2点あり、これはその1点。いずれも右上から左下へ泳ぐ魚類を、図鑑のように真横から描いている。といっても、海中では写生できないのはもちろんのこと、水族館もない時代、しかも京都は海から離れているのですべて死魚のはず。 おそらく錦小路界隈の魚屋で観察したのだろう。胸びれを下向きに広げて飛行するような様子や、親蛸の脚にしがみつく子蛸の姿がかわいい。"
伊藤若冲
《諸魚図》
明和三年(1766)頃
あと、源内と関係のあった秋田蘭画の小田野直武の死の真相を聞き出すのに"あの人"に手紙を書いていて「誰?」と思ったら、朋誠堂喜三二で彼が秋田藩の江戸留守居役だった事をすっかり忘れてた。
大河ドラマべらぼう、前半に田沼の家臣だった三浦や長谷川平蔵が不審な挙動をしていて「なんだ?」と思ったら、最後に蔦重と敵役だった松平定信が対面して源内の死や自身を失脚させた黒幕の解明の協力を申し入れるって激アツ展開で普通に驚きの声を出してしまった...。
わたしの広告 / 桜田淳子
作詞:阿久悠
作曲:水谷公生
1976年
最近知って驚いた曲。最高なスラップベースが鳴り続けるディスコファンク歌謡。良い。
youtube.com/watch?v=vC9y...