タイムマシンの開発以外のお仕事ってすべて FAKE かも
Posts by aicabod
🙇
@szkieletor37.bsky.social 体調わるい感じのポストに「みました」とか「お大事に」くらいのニュアンスで like をしてもよいですか? (よろこんでるみたいになりそうで躊躇しちゃうけどリアクションしたい気持ちになることがけっこうあるので……)
部屋は掃除をしないとよごれていくし、草木は (環境や種類にもよるけど) 水をやらないと枯れてしまう、という事実にきちんと向き合っていて、みんなほんとうにすごいしえらすぎる
🙇
ちなみに、最小論理では ¬¬(⊥ → φ) とかが証明できないので Glivenko の定理は成立しなくて、最小論理 + ¬¬(⊥ → φ) が Glivenko の定理が成立する最小論理の最弱の拡張らしいです (直観主義論理よりも strict に弱い):
www.researchgate.net/publication/...
証明図の書き換えについては、(1) を前提にするなら、有限個の排中律の instance のみを仮定に持つ直観主義論理の証明図があるはずだから、そこに追記する方針でもいけるかも、と思ったりしました
排, 排 ⊢ φ
排 ⊢ 排 → φ
排 ⊢ ¬¬排 → ¬¬φ // 弱対偶律 * 2
排 ⊢ ¬¬φ // ⊢ ¬¬排
⊢ ¬¬¬¬φ // ditto
⊢ ¬¬φ // 二重否定導入 + 弱対偶律 ⊢ ¬¬¬ψ → ¬ψ
一般に、最小論理の拡張で Γ ⊢ φ かつ ∀ψ ∈ Γ. ⊢ ¬¬ψ ならば ⊢ ¬¬φ が成立しそうな気がしますが、勘違いとかでおかしなことを言ってしまってるかも
返信をいただく前にちょっと考えていたのは、弱い対偶律は最小論理の定理 (爆発律をつかわずに証明可能) なので、そこまで直観主義論理に特有の性質ってわけではないかも、ということでした。でも (1) (古典論理 = 直観主義論理 + 排中律) が前提ならぜんぜん問題ないですね (突き詰めればそれだけですべてが言えるわけですし)
自分はクリプキ意味論とか BHK 解釈とか考えてよくわかんなくなってました
説明の内容については、なるほどと思いました
1. 古典 (命題) 論理 = 直観主義 (命題) 論理 + 排中律という認識を前提として、
2. Glivenko の定理の証明を、直観主義論理の具体的な定式化に依存しない自明な性質から正当化したい
という問題設定があって、流れとしては、
A. ⊢ ¬¬(φ ∨ ¬φ)
B. ¬¬φ, ¬¬(φ → ψ) ⊢ ¬¬ψ
が直観主義論理で成立するという事実から証明図の書き換えを正当化できるはず & (A) と (B) はともに弱い対偶律 φ → ψ ⊢ ¬ψ → ¬φ の自明な帰結なので、これを出発点に据えればうまくいきそう
みたいな感じでしょうか
ありがとうございます!!
軽はずみにめんどうなお願いをしてしまって申し訳ないです 🙇
いいねを 100 個つけたい気持ちです
これけっこう気になってるので、いつかおひまなときにでも教えていただけたら嬉しいです (「"直観的"な説明」のニュアンスとか、実際にどんな感じの説明になるのかとか)
今でもときどき、その「なにか」に対して、自分はどのような評価をする/してるんだろうか、みたいな想像をすることがある。たぶんないと思うけど、たいしたことないと判断できたなら (「一人前」だったら) うれしいような気もする。死ぬときにまだ一人前じゃなかったらけっこうかなしいかもしれない。でも、そんなことを思ってるから/気にしてるからだめなんじゃないか、とも思う。
それはそれとして、やっぱり知ったかぶったり見下したり一人前のふりをしたりしたい気持ちもあるし、いつか同期に聞いてみたいとは思っているけど、いろいろこわいのでまだできてないです
この世にあまたある、自分しかおぼえていない (から確かさを調べるすべもない) かもしれない人類史のひと幕。
卒論配属後、同期が教授と助教の前でなにか固有名詞っぽいものに言及したのに対し、教授と助教が、それはたいしたことない、そのたいしたことなさがわかるようになったら一人前かもね、みたいな反応を示したことがあった。
聞き取れなかった言及対象をあとからたずねなかった理由はおぼえてないけど、自分みたいなもんはそんな話を聞いたらよくわかってないのに先入観を持って知ったかぶりをしたり見下したりしそうだから、英断だったと思う (自分が英断をしたと思いたいがために記憶を捏造している場合の評価はむずかしい)
マネージャーとミーティングの予定があるってだけで一睡もできなくなって全部おしまい (どうしてこんなことに……)
まあ結局は程度の問題ということになるんだろうけど、自分はいまだに、自分がひとびとに対して無限のリソースを使えないこと、ひとびとに無限のリソースを使ってもらえないことに納得できていないふしがあって、そんな人間の頭がわるいことは衆目の一致するところだろうから、うっす、おつかれさまです、幸運を祈ります、と言うほかなくなって、すべてがおわってしまう
「ひとの頭のよさは目つきや立ち居振る舞いやこまかな言葉遣いに表れる」みたいな言説を見たとき、精神の具合がわるいと、「そんなに頭のわるそうなことを公言してしまって大丈夫なのだろうか」みたいなことを思う。もっと具合がわるいと、人間のリソースの有限性に思いを馳せて、「こんなにもまっすぐに人生の最適化に向きあって、なんと頭のよさそうなひとだろうか」などと思ったりする
むかーし受けた授業で、現代医療では治せない致死性の病気にかかった場合に、未来の医療技術で治してもらえることを期待して人工冬眠できるとしたらやりますか? という話題になって、まあ考慮すべきことはいろいろあると思うんだけど、「未来には知り合いとかもいないし文化も違いそうだし、蘇生したあとがしんどそう」みたいな意見が出て、それに対して講師の先生が「未来のおもしろいものが見れて楽しいかもしれないし、とりあえず蘇生してみて、『やべ』ってなったら『えい』って死んじゃえばいいのでは」みたいなことをおっしゃって、「たしかにそうかも……?」と感銘を受けた記憶があるんですが、今まさに「やべ」ってなりかけてます
経済的なこととかを考慮すれば、ながらくお休みしてるお仕事に復帰するほうが明らかに合理的でしょ、みたいな理屈で (実際そうだと思うし、戻りたい気持ちがないわけじゃないので強く反論できない)、ひとにまともに相談したりもできないまま (これは完全に自業自得)、あれよあれよといううちにそういう方向で話がすすんで、これはこのままだとまずいかも、と思っていたら案の定 (後略)
「二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや」というのが諸悪の根源のような気がしてるけど、どうしようもないっぽい
🙇 (自分は知識もないし楽しくお話しする能力もないですが、話を聞くだけでも楽しそうなおもしろい研究をしてるなあ、いいなあ、と思いました)
そうなんですね。『動物からの倫理学入門』を読んで、種差別という概念自体は特に英語圏ではけっこう受容されてるという印象を持っていたので、門前払いというのはちょっと意外でした
practical-ethics.hatenablog.jp/entry/n/neea... によると媒体によりけりっぽくはありますが、「AI倫理系の国際会議」でもそうだったということで、ふむん、という感じです
わあ、ありがとうございます!
ご紹介の論文の「種差別バイアスを評価する理由」に書かれている事項など、これまでぜんぜん考えてなかったけど、なるほどたしかにそうだなあ、と思いました。一般に LLM/AI の倫理観がどうあるべきかとか、それをどのように評価し「矯正」するべきかとかについても、たぶん議論の蓄積があり、かつ進行中でもあるんじゃないかと思うんですが、とてもおもしろそうです。教えてくださって感謝です 🙇
そういうことを考えたり、あるいはそういう話をふっかけてくるめんどくさいひとをうまくあしらったりするための補助線として使えそうなことがいろいろ書いてある倫理学の入門書で、まあ明確な答えが得られるようなものではまったくないし、「そうかなあ?」と思う記述もふつうにあるけど、扱われてる題材がおもしろいし、丁寧に書かれているおかげで納得できない部分についても自分がどこにどう納得できないのかがわかりやすいし、かなり好きな本なのでちょくちょく読み返したりしてます (ちょっと古めの本ではあるので、新しくてよい類書があったら知りたいという気持ちもありつつ)
一般に、科学的事実と倫理的規範の関係はどのようなものか (たとえば「である」から「べき」を導けるか) とか、倫理的規範にしたがうべき主体の集合 (「わたしたち」) と倫理的配慮の対象の集合は一致するか (外国人や赤子、犬、クジラ、ネアンデルタール人、大腸菌、石は配慮の対象になるか、なる/ならないとしてその理由は何か。あるいは逆に、たとえば人類よりも高度な能力を有する地球外生命体が現れたとき、人類に対する配慮を彼らに要求する理屈はあるか) とか、そもそも倫理的規範について万人の意見が一致することは脳にチップを埋め込みでもしないかぎりないだろうに、考えたり、議論したりする意味があるのかとか、
人類が総体として協働的な生存戦略をとっているおかげで弱者にやさしいシステムができました、みたいな牧歌的な説明は、優生学の興隆や障害者の権利運動などを経て築かれてきた社会の歴史の描像としても、現状の評価としても適切じゃないような気がするし、そもそも弱者を生かす (死なせない/殺さない) ための政策や仕組みを生物学的合理性の観点「のみ」から説明/擁護するのは、仮に事実の記述として正しかったとしても、(たしかに質問者の要求に沿ってはいるけれど) やっぱり回答として不十分なんじゃないかと思ってしまう
伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』: detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_... という知恵袋のベストアンサーがむかしツイッター (X) でバズってて、「多様性や冗長性が種の保存の観点から合理的であることを論証し、質問者の通俗的な社会ダーウィニズムを完全論破」みたいに扱われてたんだけど、個人的にはかなりもやもやしている。まず、「どういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能」だから「可能であるならばできる限り多くのパターンの『障害』を抱えておく」ことが生存戦略としてつねに合理的、というのは話を単純化しすぎてるような気がするし、
とんちの利いたユーモアをそれなりの頻度で発揮したつもりの会話のあとで「あなたはひとと話すのが苦手だけど他にいいところがあるからそれでいいんですよ」みたいに言われると、なるほど〜、となるし、その正当化の理屈が「だれでも得意不得意を合計すればおなじになると自分は考えてるから」みたいなやつだと、道端のカマキリにもそれ言えるんですか、と食ってかかりたくなるけど、たぶんそういうところなんだろうし、じっさいカマキリはとんでもなく高潔な魂を持ってるのかもしれない (仮にそうだったとして、だからなんなんだという感じもするが)
やらないほうがいいことをするのはそう難しくないし、やらないとまずいことをしないのは簡単で楽だし、いないほうがましな存在にだってなってしまえる (実際にいなくなることだってできる) のに、みんなちゃんと生きててすごいなあ、えらいなあ、みたいなことをたまに外に出るたびに思う。だけど、ほんとうに不思議なもので、ツイッター (X) とかをながめてるぶんにはあまりそういうふうには感じなくて、どちらかというとちょっとちがう趣のことをちょくちょく思う