野口良平『列島哲学史』(みすず書房、2025)
「もし人間が一人きりで生きていくことができるなら、哲学を必要とすることはないだろう。他者との関係が生じ、それまでの世界像がゆらぎを経験せざるをえなくなったとき、哲学ははじまる。
インド、中国、ヨーロッパ、米国という強大文明の辺境にある日本列島で、世界像のゆらぎは世界最大級だった。そこでうまれる哲学には、中央文明本位に普遍がイデオロギー化することに抗い、普遍に対する新しい考え方を構想する可能性があった。
古代から現代まで列島哲学の歴史をたどる初の試み」
(*改行は山本が挿入)
www.msz.co.jp/book/detail/...
Posts by 長瀬海
本日は「哲学B」の2回目でした(週2回)。
まずは「哲学」という概念についての話から。
他の諸学問は「物理学」「心理学」「歴史学」と名前に対象が入っている一方、哲学の場合はどうだろう、というところから出発して、制度なども含む変遷を眺めました。
今回は野口良平さんの『列島哲学史』(みすず書房、2025)の含蓄に富む「序説」を読みながら、西欧世界から出てきた哲学を西欧ならぬ場所で営むとはいかなることかという問いも含めて検討する途中で時間切れとなりました。
野口さんが引いておられる、中江兆民の「我が日本、古より今に至るまで哲学なし」の原文も、125年前の日本語と版面の例としてご紹介。
編集者の書いた文章に編集者のようなコメントをしてしまった。
ほんと不思議なのだが、連載中は自分が書いた原稿を削れと言われても、無理無理、やだやだってなってたのに、今手を入れ直してると、ざっくざく削っちゃう。こんな引用いらんやんってなる。
サナエトークンの件は、ぜんぶが裏目に出ていて、関わった人間全員のガバナンスがやばすぎる。あんなやつらが権力をもってる社会も会社もどっちもおかしい。
あっち(X)は地震速報後にサーバーダウン。TwitterからXになって災害にも弱くなった。
全力でぶつかろうとした気持ちが伝わったみたい。よかった。
少し前に批判混じりで書評した本の著者から、とても好意的な手紙と全著作が届いた(笑)。
そんなこと言ったら文学翻訳だって他国の言葉を自国の人間が理解できるように置き換える行為だろうと言われるけど、だからこそトランスレーション・スタディーズは「翻訳可能なものは何もない」というベンヤミンの言葉から始めることになってるんだろうよ。不可能なものを不可能と知りつつ翻訳する意志とそれに基づいた営みがテクストを生成してるわけで、それが創造的な行為だとわかっててぼくらは翻訳テクストを読むのではないかな。その自覚があるのとないのでは大きく違う。
あっち(X)では他国の言語が勝手に翻訳され、自分の国の言葉になって届けられるようになった。つまり、異なる言葉との出会いがなくなったわけだが、それは世界の複雑さを理解する機会の損失でもある。こういう言い方はなるべくしたくないのだが、「他者」のいない(ように見える)世界はとても気持ち悪い。世界ってそんな単純なものではないだろうに。
固まったはちみつは電子レンジで10秒チンすると元に戻るよ。これ豆な。
批評の男性性をあげつらうのはよいが、人間の複雑なところを語らざるをえないがゆえに帯びる批評の難しさを悪いものと決めつけて、難解な批評は男性的だからもっと平易に、もっとわかりやすく語りましょうというムーブはぜんぜん本質的ではないと思う。
外山恒一と園子温の問題は根が同じ。まわりは知った上で担ぎ上げてきたんだろうから、問題が顕在化したときに知らん顔はしてはならないと思う。大事なのは、内省と(じぶんへも、当該の人間へも)批判なんじゃないかな。関わりがなかったことにはできないわけだから、加担した過去に向き合い続ける必要があるんだと思う。外野からとやかく言われたくない気持ちもあるだろうけど、逃げちゃダメだよ。
このようないじめの話は既視感がある。というのも、学生に「記憶」をテーマにしたエッセイの課題を出すと、じぶんが乗り越えた辛いできごとの話としてたびたび書いてくるからだ。今の時代は学校の教師が細心の注意と手厚い心配りをしないと、ほんとによく起きてしまうのだと思う。ましてやこの教育委員会のように事実から目を背けようとするのは、同じ悲劇を今後何度も生むだけだろう。
bunshun.jp/articles/-/8...
来たる3月31日(火)に行われる思想史家の原武史さんとのトークイベント、会場参加のチケットは完売となりましたが、オンラインでのチケットは購入できます(3週間視聴可)。ご関心のあるかたは、そちらでご予約いただけるとうれしいです。
dokushojin.net/news/1280/
なるほど。
少なくとも京大人文研の場合、共同研究の活力が保たれていたのは、どうひいき目にみても、1950年の『ルソー研究』から1967年の『文学理論の研究』まででしょう。これは、『京都大学百年史』ではまったく取り上げられてはいない問題です。また今の研究者で、その問題の根っ子を掘りさげている人がいることを、寡聞にして知りません。
ぼくが博士課程を過ごした日文研は共同研究が引き継がれている(と言われている)のですが、じつに閉じたアカデミックな空間になっています。科研費で開かれ、偉い先生方に学生が付き従う権力関係で成り立つものでした。
原武史『出雲という思想』を読んでて思い出したけど、かつて祖父の葬式に出たとき、うちの父方の実家が神道であることを知った。なぜ神道なのか、なんの神道なのかはわからない。こういうのは起源はどこにあるのだろうか。
おれはすごいとか、おれの仲間はすごいとか喧伝するひとがとても苦手。で、いまの文学のシーンにはそういうひとが多くて居心地悪い。
映画『金子文子 何が私をこうさせたか』(監督浜野佐知、脚本山﨑邦紀)を観て、深い感銘を受けた。
死刑判決の後、無期に減刑された文子(菜葉菜)が、宇都宮の獄で命を絶つまでの四カ月に焦点をすえる。動かしがたい本心に従うか、強者に屈し大勢に従うかのせめぎあいで、『ソクラテスの弁明』への一つの新注のようにも思えた。
じっさい文子は、獄中で自伝を書き始めたあとの提出書簡(1925年11月)で、自分がやろうとしたことは政治運動としてのテロリズムではなく、ニヒリズムに根をおいた「哲学運動」であると述べているという。映画のパンフレットに収録されている語録で、そのことを知った。
海外の方と日本の作家の、同時通訳入りの対談をまとめてたんだけど、通訳さんが訳してくれた日本語をそのまま書き言葉にするとどうも少し文章としての強度が落ちる。思い出ばなしとかそういう平易な会話なら問題ないが、難しい文学の話になると一度、録音した英語を翻訳するようにして書き言葉にしなくちゃいけない。その場ではコミュケーションは成り立っていたのに、なんだか不思議。通訳と翻訳の言葉は別物なんですね。もちろん同時通訳さんは素晴らしく優秀な方でした。
いま某メガバンクのシンクタンクが発行してる経営者向けの会報誌で作家インタビューの連載を担当させてもらってる。最初こそ、本の話は宣伝っぽくなるのでなるべく控えてくださいと言われて、小説家に本の話を聞かなくて何を聞くんだろう……と戸惑ってたけど、だんだんコツがわかってきた。思考術や「マインド」についての質問とかふだんすることないから、新鮮で楽しい。エゴサしますか?とか、批判的なコメント見つけたときの精神安定法はなんですか?とか、遠慮なく聞けちゃうの面白い。
竹田青嗣『〈世界〉という背理』を数人で重い石を持ち上げるようにしてなんとか読み切った。竹田の仕事につうじてるひとの力を借りて、〈世界〉ってなんだ? 背理ってどういことだと立ち止まりながら読んだ結論として、小林秀雄論としても吉本隆明論としても、比類なき傑作評論だと思ったよ。竹田青嗣よわい40歳のときの本。あっぱれだ。しかし当時あの本が言わんとしたことを理解したひとはどれほどいたのだろうか。
SNSが生の中心となった現代ほど、ひとがひとを嫌い、憎むような世の中はなかっただろうと思うよ。憎しみの総和は80年前の世界戦争のときよりもいまの社会のほうが大きいだろう。悪意になれた人間ほど怖いものはない。
私は自分の読んだ本を、「わかる―わからない」、「面白い―面白くない」という二つの軸からなる四つの象限に位置づけてみることがある。
そのなかで一番評価が高くなるのは、「わからない―面白い」というカテゴリーだ。
よほど面白くない限り、「わかる」こと自体には価値を置かない。それがマイルール。
the Letterに新しい記事をアップしました。柴崎友香の異形の恋(変にして偏)愛小説『寝ても覚めても』(河出文庫)の文庫解説文です。読者登録(無料)していただければ最後まで読めますので、よかったらご一読下さい。
toyozaki.theletter.jp
東日本大震災のときも、コロナ禍初期も、日常が止まることの苦しさを嫌というほど味わった。日常的な時間の流れが止まった社会では、不確かな情報が沸き続けるのだということも知った。そのなかに閉じ込められ、あてにならない政府の発表を待っている、あの、何かが引き延ばされているだけの感覚。もうこりごりだ。災禍、ましてや戦禍なんてものは、やってきてほしくない。