まぁでもそういう考えかたが発生しなかったとしたら、今ごろ生物全体として比較にならないぐらい悲惨なことになってそうなので、
倫理なるものが生まれてよかったね……というところに結果としては落ち着くのだけれどね💭
Posts by 橙ミャオのあたまのなか🐈💭
「殺し合いはいけない」というの、よくよく考えてみると『生態系の支配者』たる現在のニンゲンだからこその考えかただよな、と率直に思うところもある💡 種として常に生命が脅かされる立場であれば、そんなこと言ってられないでしょうし……⚔️
ぜんぜん!実のところわたしも自分がちゃんと理解してものを言えてるのか、逐一確認しながらなので……知識水準の確認って意味でもめちゃよい機会になってます!🐾
それこそ統合失調の典型的な症状のひとつとして「自他境界が曖昧になる」っていうのがある、という理解をしてる💭(もちろん、統合失調とは原因がべつにあるケースもある)
たとえば「思考を盗聴されている」というのは、主観と客観(≒自分と他者)をある程度適切に区別できている状態なら「主観として一瞬思ったとしても、客観的にそんなわけはない、と判断できる」ものであるはず⚖️
「いかなる他者にも害されたくない」というスタンスは見た目上かなり真っ当なんだけどわりと致命的な穴があって、
「害」の定義側を動かすことで主張を無制限に広げられてしまうのよね🕳️ 「あのひとが生きているだけで不快な気持ちになる」を「害」とする定義が、もし社会的に通ってしまったらどうなる?というところ……💣
「自分のなかでの正が、他人にとっては正でないという可能性は存在しない」という考えかたは、自己と他者とは異なるものである、というボーダーラインを適切に引けていないのでは、っていう判断になるとおもうので『自他境界』に言及をしました💬
そういうひとに接近しないこと、というのはもちろんそうなんですが、
じゃあいま自分が罷り間違ってもそうでないと、誰が保証してくれるんだ???という、おそろしいおはなしもありますね……せめて「今すでにわたしは狂っているかもしれない」という可能性を、ちゃんと直視しながら生きていきたいものです……🔍️
端折ってしまったのだけど、ここでいう「嘘」は「客観的に偽である」の意です💭
なのでこれは「本音で話している」という主観と、「話していることに嘘が含まれていない」という客観的判断の間に存在するはずの隔たりを認識できているか否か、のおはなしになる💬
でも、それから少し考えて思い至ったんですけれど、
たとえばわたしが狂ってしまったとして、おそらくそのときわたしの主観では「世界が狂ってしまった」ように見えてるとおもうんですよね これだいぶ怖くないですか?わたしが世界に対して感じた不合理が、ほんとうはわたしが世界に対して与えている不合理である……その可能性を否定する手段って、厳密には存在しないとおもうんですよ✒️ 自分だって実は既に狂いきってしまっている、そういう可能性が……ゼロだと言い切ることはできない……
「わたしはすべて本音を話している、だから嘘などひとつもついていない」という旨の主張を目撃したときに感じた迫力、いまでも覚えている💭 自他境界…………!
いったん単純化(変数を減らす)して考えることは何においてもとても大事ですが、それを単純化したまま語る際には細心の注意が必要だなとつくづく感じます……!とにかくわたしにできるのは「考えることをやめないこと」だなーとおもう次第です💭
妥当性よりも訴求力を重視したアジテーションライクな手法って、とくに現代社会の情報量のなかにあると、意外に早い段階で限界がくる手法なのだということが見えてきたのはここ2-3年くらいでの発見でした🔍
その仮説を排他的な真実であるという断定をせず、絶えず検証する姿勢を持つ限りは、どんなにトンデモに見える理論にもなんらかの価値が宿ると信じてます📝
もっともわたし自身もしばしば「(中立ではなく)浮動票的なひとびと」の一員になることを選択している自覚があるので、個としての意見としてはそういう属性のかたがたへのシンパシーがあるといえばあります💭 規範というところからの目線ではよろしくはないのでしょうけどね……!🐟
互いに考えの範囲をより広げてくれるタイプのご意見、わたしとしてもめちゃありがたいです!✨
「加害を傍観すべきではない」という理屈は、
・加害の現場がクローズドな空間である(当該空間にいるひとびとが加害を目視可能である)
・誰が加害者で誰が被害者か、が一目見て明らかである
という場合においては、目の前のトラブルの対処のために有効であると考えています💭 但書として加えていた「学級」程度の規模、というのはまさにそこで、アルスさんが出してくださった「電車」の一車両もだいたい空間としては同程度の規模ですね🚃
なので、わたしのもともとの言及はあくまでオープンな広い場に対するもので、
クローズドな狭い場においての最適解はまた変わってくる可能性があるな、と思いました💭
ちなみにこの想定で考えるなら、中立や穏健ではない「無関心」の層を『浮動票的なひとびと』と呼ぶことはできるかなとおもいます💭 「批判行動を起こさないことへの批判」は基本アンチパターンだとわたしは考えますが、浮動票的なひとびとに対してはアプローチしうる方法でもあると思っています……が、この層は最終的には「中立・穏健」に巻き取られていく可能性が高いとわたしは見ており、結局のところ長期的には実を結ばないのではないか、という所見です🔍️
ありがとうございます!これ、「いじめ」の比喩を出してしまったがゆえにおはなしとして焦点がブレちゃったかもしれないですね……!
実社会のオープンな場においては「Aさんが『Bさんに加害された』と主張し、Bさんが『Aさんに加害された』と主張する」のような、実際には何が起きているのか、大半のひとにとって真実が不透明であるケースが非常に多いと考えます💭
そういった前提のもとで、たとえばAさんが「Bさんを批判しないやつは人でなしだ」と発信することが、はたして盤面における選択として有効かどうか?というのが今回の観点ですね🔍️
「批判しない人間を批判する」のは、「中立や穏健の立場を選択したひとびと」というボリュームゾーンに対する敵対宣言として機能することが多いのを考えると、行動選択としてはだいぶアンチパターン性が強いとおもっている🪤
「いじめは傍観者も同罪」の理屈が有効に機能するのはせいぜい「学級」あたりが規模として限界(構成人員全員のパーソナリティや行動を互いにある程度把握できる)だと感じているので……💭
いわゆる「エコーチェンバー現象」と呼ばれるものはしばしばSNSに結び付けて語られるけれど、Blueskyがそういう挙動を促進するようなシステムを特別強くフィーチャーしているわけではないのを見るに、実際のところこれは「SNS」ではなくて「S(ociety)」と結び付けられるべきものなのでしょう🔗 そこが明確になったのは、わたしの中でひとつ勉強になった部分だ✒
世において陰謀論と一笑に付されているような論理だって、その考えかた自体には少なくとも一考の余地があるはずなんですよね💭 問題はそれを無批判なまま、「排他的に正しい思想」として内面化してしまうニンゲン側にあるのであって……そして無批判に内面化をするべきではないというのは、別に陰謀論と揶揄されがちな思想に限ったことではなく、一見自明に感じられるような思想だって同じことであるはず📖
素朴に……いわば「ボス猿的に」考えるのであれば、共同体におけるトップが最も過ごしやすいようにルールを作り替えていく判断になるのだろうけど、そういう判断を「妥当な選択ではない」と定義するところにひとつ、社会というものの役割がありそうな気がしている🌏
Xwitterはとにかく雑然としていて不快度が高いのは間違いないんだけど、
Blueskyは雑然とはしておらず純度が高い分、使いかたによっては危険度はこちらの方が高いかもしれない とくに最近はそんな風に感じる💭
わたし自身も「少なくとも現在、合理的に事実であると認定されるもの」に立脚することは重要だと考える立場なので、その姿勢自体はわりと共感できる部分があったりもするし、コンセプトとしては意義があると感じる場合も多い🐈
ただ悲しいかな、思想集団というのはエコーチェンバーとしての機能が絶大で、
客観的事実を重んじよというスタンスのはずのひとが、いつのまにか陰謀論的な言説に呑まれていったり、主義者の人格否定に走ったり……同じ穴の狢じゃんね、という構図に結局なってしまいがちなのがつらいところだ⚡
この前提のもと、ひとつ感じることとして……現代社会においてはおそらく、この「アンチ・~~イズム」的な派閥(のように一見映るもの)というのが、ある意味実証主義っぽいとも言えるのかな、「検証可能な客観的事実(と認定できるもの)」を重んじる姿勢からスタートしている側面があるように見える🔍 これは乱暴ながら端的な例で言うと、すなわち「デマを根拠に社会を動かされてはたまらん」というところで、したがって主義そのものへの批判(anti-ism)というよりは主義者の行動に対する批判(anti-ist)というところになるのでしょう💭
いわば「アンチ・~~イズム」的な分類のされかたをするタイプの、現代のさまざまな言論を眺めながら長い間考えていたんですけど、
概念のおはなしとして「"アンチ右派"と"左派"はイコールではないし、"アンチ左派"と"右派"はイコールではない」というのは、まず指摘されるべき重要なポイントなんじゃないかなというのを感じた🔍 そりゃそうだ!ではあるんだけど、実世界においてはしばしば無自覚に、あるいは自覚的に『イコールだ』とされるものであるから……💭
ほーーーんと「社会の社会性」に対して脆弱だなわたしは!!!と最近よく感じている 社会という概念そのものからできる限りきっちりと距離をとって生きていくしかないなぁのきもち🐟
ニンゲンの生き物としての性質(本能的側面)を考えるのであれば、社会が「誰にとっても過ごしにくい」という状態が、むしろ社会というものがある程度健全に機能している証拠なのかもしれない、とおもった💭
「責任範囲のマスキング」のおはなしに関連して、
たとえばあるAIソフトウェアに指示語を打ち込んで、AIがそれに基づいて成果物をつくる……というとき、指示語を打ち込むニンゲンの立場というのは、既存の概念で考えるなら「ディレクター」の職能領域にあたると考えられる☝️
であれば、上述の「シンプルで素朴な、平均的な消費者感情」に照らし合わせたとき、
たとえばボーカルディレクターが「ボーカル」としてクレジットされることが消費者の期待にそぐわないのと同様に、
AIへの指示語入力でボーカルデータを得たひとを「ボーカル」としてクレジットすることもまた消費者の期待にそぐわない、と考えることができそう💭
おはなしを戻して、
③「メインボーカルデータをもとにハモリトラックを半自動で書き出すAIプラグイン」
これはどうだろう?先の「専門的成果と責任」のおはなしに照らし合わせて……これはセーフととるひとのほうがやや多そうではありつつ、アウトととるひともいそうなラインだ📏 ①と②のような、必ずしもわかりやすく線を引けるケースばかりではないことに十分留意する必要はありそうだね……というところになってくる💭
別の事例からこれを紐解くのであれば、
「ゴーストライター」の存在が明るみに出た時にひどく大きな問題になったり、逆にさほど取り沙汰されなかったり……というばらつきがあるのは一見奇妙に思えて、
そこには上述した「平均的な消費者が暗に求める専門的成果と責任」が期待値としてどの程度のものであったか?というところが深く関係していると考えれば、じつは矛盾がないともとれるのよね💡 簡単に言えば、「シンガーがゴーストライターを雇う」のと「クラシック作曲家がゴーストライターを雇う」のでは、当然後者の重みは前者の数倍数十倍になるよね、というおはなしだ✒️