『海辺の恋』のダニエルは…おそらく自身の内なる…大木裕之の言い方を借りれば "正しい欲望"…に気づいてしまった、あるいは自らに誤魔化しきれなくなったのではないか。以前はそんな風に感想した。
孤独なまんま彷徨うであろうギィ・ジル映画の孤独者たちが今さらに身近に思える、この頃。またスクリーンで見られる!たのしみ!
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悦子さんが受話器を取った後の留守電の友人たちからのメッセージに大木裕之の…おそらく若い頃の音声があった。「こんど映画でもまた見に行きましょう…では、さようなら」。
個人的に驚いたが、結果的に遺作となった『松前君とトヨタ君の映画』で大木さんも自身の足先を芹沢さんと同じような構図で撮っていて。
仲良しすぎる。
一年ほど前に芹沢さんは自作で一番好きなのは『いどうだいすき』(1991)と言った。悦子さんと初めて二人で撮った作品だそうだが、そのラスト…うろ覚えだが…悦子さんがカメラを持って「今度は私が撮るよ」って言ってたと思う。
『発熱タンゴ』のラストの悦子さん横ショットは、そのリメイクだと思う。
このように激しくもさまざまな感情をひとつのショットに込められるものなのかと。
引いた先のラストショットは前述チラシ下の画なのだけれども、この悦子さんの右側を横からまなざす構図は…個人的には…昨年3月芹沢さんの新作『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』も連想させられる。
そこで娘さんからの手紙を読む悦子さんをやはり横から捉えたショットがあって、対になっているように思える。
と、言いつつ記憶あいまいで自信無いが、『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』では悦子さんの左側だったか?
それら横ショットの在り方に芹沢さんの言う《映像の自生性》についても考える。
そのすばらしい一連で、芹沢洋一郎は自身の足先をかざしフィルムへ映しこんでいるのだけれども…
その足先はまるでタンゴのステップを踏んでいるかのようでもあり…
ぼく(ら)の耳にはタンゴの調べは聞こえないのだけれども、それでも、確かに、今も、ここで、踊り続けているよ、と。ぼく(ら)の眼に合図を送ってくれている。
そして映画にまた聞こえてくるタンゴの調べ。
だから同じく悦子さん正面ショットではあるが、ここは"夢の記憶がない"世界からのまなざしなのだ。
楽器のボタン鍵を操る悦子さんの手指をやや長めにアップで押さえてから引いてラストショットにつながるのだけれど。
このボタン鍵アップに感嘆してしまう。
その直後にバンドネオンを演奏する悦子さんを正面で捉えたショットが配置される。
この正面ショットはチラシデザインの二つの横ショットとも、また違う意味合いを担っているのではないか。強いて言えば、それは"生者"の時間にある芹沢さんのまなざしだ。
だから、ここでは、タンゴの調べは聞こえない、ひとまずは。
そこからの一連は、境界線上に留まっていた時間が、ふたたび"生者"の側の時間を刻みはじめる様を見せる。
しかし、まぁ、しかしだ…風に揺れるカーディガンは生きているみたいだし。浴槽の水の音とかとか。
この一連のショットが謳いあげる"生"のうつくしさ、それを愛でるようにしてまわるフィルムの。すばらしく。
冒頭場面の麻酔で眠り…"夢の記憶がない"世界…に落ちて行きながらも、芹沢さんがまなざそうとしていた光景こそが、あのラストショットなのではないか。
カラフルに色付くその光景は、ぼく(ら)に世界のうつくしさを思い起こさせてくれる。し、やっぱ、もうラブラブの"恋文"じゃんか!
なんてやさしいショットなのか。
キュートに踊る悦子さん宛てに鳴った電話から過去の声たちが聞こえてくる場面があって、それに続く、昼間さんのとんでもなく献身的な友情で成し遂げた"死後の生"ともいえる一連の場面があって…それら場面を通じて『発熱タンゴ』は…"不在/死"と"遍在/記憶がない眠り"とが全く違わないことを示してくれる。
バンドネオンの蛇腹の押し引きに呼吸を、生きている証を、重ねる作品の企図は、しかし作品を超えて、それを演奏する悦子さんに向けた"恋文"みたいじゃんか!と…彼女に生かされた人生のよろこびを奏でる儀式のように見えてしまうのは…なんとなく事情を伝え聞いているからだけでもなく。
それこそ《映像の自生性》というものだ。
チラシになっている風呂場での二人の構図が『発熱タンゴ』の基調だと思うが…
これは"誰"の視点によるショットと捉えるべきか。
ラストショット…チラシ下のショット…に至って、それは当然、肉体的には不在となった…"映画"のなかへ引っ越した…芹沢さん自身のまなざしであるのは間違いないと思える。
『発熱タンゴ』の冒頭。
麻酔で眠りに落ちる直前カメラに向かって…偶然であれ…顔を傾け、目を開こう、まなざそうと、しながら、芹沢洋一郎は《夢の記憶がない眠りと死は、一体何が違うのか?》と問う。
だが…疑問形な「?」に扮しながらも、これは「何も違いやしないじゃないか」と、証してみせるための"映画"なのだろう。
その冒頭の「呼吸のお手伝いをしますね」と麻酔医のことばを、引き継ぐようにバンドネオンを演奏するパートナーの芹澤悦子に…
もちろん昼間行雄や関浩司をはじめとする友ら協力者たちにも…
そして"映画"に…
自らの"いのち"を託して踊ってみせる映画作家・芹沢洋一郎の『発熱タンゴ』は、その最新作だ。
松前君シリーズ最初の『松前君の絵日記』(1988)は
《また寝坊してしまった。また今日も遅刻をするんだろう…8時12分…どんなに走っても間に合うわけはない。》
で始まり
最後の『松前君とトヨタ君の映画』(2024-2025)は
《そうして、明日が来た。新しい朝が来ている。新しい朝が来ている…》
で終わる
また寝坊した者が夢のなかで見る"映画"。
大木裕之の60年はたった1日のできごとであったのだと妄想してみる。
走り続けて、間に合わず、それでも走り続けて。そうしてようやく明日へと駆け抜けて、ようやく見つけた、新しい朝を、今も走る続ける。
また見つかった、何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。
春三月。輝ける半身を残して三月のひととなった女優のこと。
あの年は、年初めから完全な喪失のための序章みたいな時間が緩々と流れて、確かに寒かった筈なのだ、なのに。時間と一緒に五感も宙吊りにされて。寒さを憶えていない。
あんな風に舞台の上で踊り切ってみせた彼女の三月が、また過ぎてゆく。
その時々の感情や感情にも思考にも結ぶことのない気もちの揺らぎのようなものは時の経過とともに消えてしまう、かのように思えるけれども、実はそうではない。のではないか。無意識のうちにそうした感情のかけらを宛先のない手紙みたく瓶詰にして封をして胸の底の岸辺から"わたし"という海へ放流してきた、のかも知れない。と、思った。
十万人規模の死傷者がでると予測しながら軍需産業の生産拠点だの戦争早期終結だの言ったって、それは…"恐怖"による支配でしかなく。身を焼かれる苦しみに見開からた眼を見ることもなく焼かれた肉のにおいを嗅ぐこともなく彼らは虐殺機械で今も世界を壊し続ける。あの人たちは軍事目標ではなく人間だ。
空爆の、無差別爆撃の卑劣さ。もちろんあらゆる"戦争"…結局は国家による市民の虐殺行為でしかないそれにまつわるすべての行いのすべて愚劣であることに違いはないけれども…殺す相手の目を見ず殺すその思想が殺すものは"敵"だけではなく、その思想は、ぼく(ら)の"社会"を保っている"人間的なもの"それ自体を破壊して踏み躙る。
明日2月28日(土)18時半~新宿歌舞伎町のPetitMOAで
《「これまで これから」 柳下毅一郎が掘り下げる 大木裕之の映像世界》の
vol.10追悼特別回が開催される。
昨年月一度定期開催されていた柳下さんと大木さんとの対話の…
これまで、と、これから。…これから!
『心の中』のレア盤!"デスバージョン"が上映される!
予約2300円当日2800円、ドリンク別途700円
学割もある!予約1000円当日1500円
petitmoa.jp/7634/
「アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ」at 国立映画アーカイブ
www.nfaj.go.jp/film-program...
<ジョナス・メカスらによって設立されたアンソロジーの映画コレクションや、同アーカイブで展開されている先鋭的な上映プログラムを軸に、自由でラディカルな実験映画の作品群が一堂に会します。>
国立フィルム・アーカイブのアンソロジー・フィルム・アーカイブ特集、1/25(日)の「クッチャー兄弟作品集」の回で上映後にトークをさせていただくことになりました。この素晴らしい特集に一人でも多くの方に足を運んでいただきたい、ということで……お耳汚しですが、どうかご容赦を。
www.nfaj.go.jp/program/anth...
その序文にあたる「Prologue. Love’s Labor Lost」で、B・ルビー・リッチは自らとマージョリー・ケラーとの私的な関係を回想している。
…ぼくは英語わからないから半分勝手な思い込みで誤読もしているだろうが…とても切なく情熱的な…まるで青春映画みたく…すてきなテクストだと思える。
いつか正式に邦訳出版してほしい。
画像は間違いのある前提で自動翻訳を共有。
マージョリー・ケラーの映画は彼女が強く影響を受けたマリー・メンケンと共に上映される。国立映画アーカイブで1月28日(水)15時、2月8日(日)16時の2回。
www.nfaj.go.jp/film-program...
1月15日からはじまる国立映画アーカイブ「アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ」で、マージョリー・ケラー Marjorie Keller が紹介される。
www.nfaj.go.jp/program/anth...
ケラーに関して「ニュー・クィア・シネマ」という言葉を生んだ B・ルビー・リッチ B. Ruby Rich が著書「Chick Flicks: Theories and Memories of the Feminist Film Movement」(1998)で論じている…残念ながら今回上映されない「Misconception」(1977)についてだが…
「アンソロジー・フィルムアーカイブス」特集の詳細出た!
長短100本超のインディペンデントな映画たちを、今、国立映画アーカイブで上映すること…見ること…とても重要な催し/抗いに思える。
マーコポウロス『ふたたび男が』が!ロン・ライスが!クッチャー兄弟が!遂に見られる!
www.nfaj.go.jp/film-program...
国アカでこんなとんでもない企画初めてじゃないか!…これら映画たちの"精神"を今この先に繋いでいけるかどうか…
"映画"を問い直し、拡張し、あるいはそこからはみ出しながら諦めなかった若き先人たちが…不寛容な社会と経済的抑圧に抗って獲得した"血の色をした映画"たちだ!
メカスを「ロブスターおじさん」と生涯非難し続けることになる。ロブスターはスミスの語彙において"地主/家主"みたいな存在を象徴していたと思う。
まぁでも今名前を挙げた人らは、ぼくからしたら、みんな。既存の抑圧的な制度からの"脱出"を試み続ける人らで。
そうした"抗い"を諦めない意志/欲望こそを、ぼくは。"クィア"と呼びたくなる。
Queer, what a difference/When your vision is clear/And you see things/As they really are
踊るフレッド・アステアの歌声聴きながら。
youtu.be/4C-wHhpybl8?...
それは裁判の戦略として妥当だったかもだが…おそらくスミスは裁判そのものもパフォーマンスにしてしまうのは明らかだから…裁判に「勝つ」ためには作者で当事者であるスミス自身を除外する必要があったのではないか、でも、しかし。スミスの側からしてみたら…「表現の自由」とか「猥褻の論議」の次元で『燃え上がる生物』を作ったわけではなく…既存のシステム…資本主義的な世界全体への"異議申し立て"なのであって…奴らの論理の勝ち負け…「成功」か「失敗」かなんて…たぶん、だけれども…スミスには本質を見失って矮小化しているとしか思えなかったのではないか。だから、その後のスミスは…ほんとに最大の擁護者であったと思うけれど…
ところで。
バルバスタムの「Failure」が日本語で「失敗」なのは正しいにしろ…「失敗」という語に…単にぼくが…なんだかしっくりこない。バルバスタムの意図はわかる気もするし、ぼくが言ってることはその論旨から外れていると思うが、どうも「失敗」は「成功」と対になって、そこから抜け出すためのあえての用語であっても既存の制度を前提にしてしまう感じがしてしまって。
特にジャック・スミスと絡めて考えると。スミスは「失敗」だと思いもしないと思うのだ。
ジョナス・メカスやケン・ジェイコブスらとスミスが仲を違えたのは『燃え上がる生物』の裁判の過程であったらしく、メカスらとその弁護士はスミス自身の出廷を拒んだ…
『ソング・フォー・レント』や『ノー・プレジデント』のような政治家/権力者をモチーフにする作品だけでなく『燃え上がる生物』『ノーマル・ラブ』といった…性的表現で話題に上がるような作品も。資本主義…"地主/家主"制度…に如何に抗い生きるのかという問い…抵抗…というか…"映画"自体が既に新たな生き方として…そこに示されていると思える。
余談だが"地主/家主"制度云々といえば。
ジャック・ハルバスタムが特別講義でゴードン・マッタ=クラークを取り上げていた。マッタ=クラークもスミスのパフォーマンスにインスピレーションを得ていたかも知れない…根拠ではないがロバート・ウィルソンの作品に2人とも関わっていた。
ホセ・エステバン・ムニョスは《Smith's camp was not good-humored goofing. It insisted on social critique.》と書いていて、それはジャック・スミス作品への大切な観点だと思える。
ムニョスはシュテファン・ブレヒト Stefan Brecht『クィア・シアター Queer Theatre』を参照しつつ主にスミスのパフォーマンス作品について語るが…ぼくには遠く憧れの見ることの叶わぬ"ジャック・スミス"だ!…スミスの映画作品にも"social critique"な側面はある。センセーショナルな側面が強調されるのも仕方ないと思うが。
時局ヲ收拾セムト欲シと告げたとて何ひとつ収拾はせずあの夏は引き延ばされてあなたがたをとおくに見棄てる。見棄て続けて今もかりそめの繁栄にチンチンしてみせる畜生制丸投げ主義。あなたがたの終わりはあなたがただけのもの。わたし(たち)の終わらせ方を見守る義理も無く。蝉がじんじん鳴いている。
顔も声も思い出せずその名すら忘れてしまっているのに虚空にまばゆくまぼろしのなみだをながしてみせても何が届くというのか。あなたがたの飢えとかなしみと渇きとくるしみと。恐怖と。恥辱と。軽蔑と。怒りと。むなしさ。宙づりにされたまま繰り返すあの夏の時の今。思い及ばず言葉に溺れるばかりのわたし。
鳴き声のほかなにもなく。
雲の切れ間から僅かに覗くあしたを二つに切裂く火球。ひとのかたちを奪われたあなたがたとひとであることを忘れたわたしたちと。水をくれ。振り絞って発せられし末期の声がわたしのあしたに残響する。ひとであれ。鳴り響く二つの鐘の音のあわいの沈黙であなたがたが見つめるあした。忘れることなかれ。
どうしても水が欲しくて。真夏を背負って鳴く蝉のかなしみ。渇き。叫び。光。今は安らぎに転じ解き放たれていてくれたなら。わたしの身勝手な願いではあっても。
歩み止めるわけにもいかず、わたしは焼けた大地の灼熱をこの足の裏でもって想像しなくてはならない。
瞑ったままでいられるのは死者の特権で生者は目をあけなくてはならない。
その瞬間。閃光が熱線が爆風がその衝撃波と爆音そして黒煙と粉塵ときのこの雲に放射能。直径数百メートルの火球が喰らう、その瞬間。と、あなたがた、十数万のひとびとのひとつひとつの生。と、ひとのかたち。八十年の時を経て今なおその瞬間は終わらせることもできず、ぼくに迫る。黙するな直視せよ。
1月7日発売の『新潮』2月号に
【特集 生誕一〇〇周年 よみがえる三島由紀夫】に
◆特別企画1:三島由紀夫への手紙
川本直「拝啓、三島由紀夫」
タイトルからわかるとおりコレがエピグラフに。
www.youtube.com/watch?v=QxRK...
三島への逆説的讃歌にして、三島が最後に最も評価したとある詩人へのラブレターです。
ゴア・ヴィダル「三島の死」(翻訳)
全米図書賞ノンフィクション部門受賞したエッセイ集成「ユナイテッド・ステイツ」から本邦初訳です。ヴィダルの新訳は26年ぶり!
を寄稿しました。読んでね!
www.amazon.co.jp/dp/B00QSDJGLW/
エクスペリメンタル映画作家で米国在住の西川智也さんの癌治療のための募金のようだ。10月8日に緊急搬送されステージ4の癌と診断され現在アップステート大学病院がんセンターで治療を受けているそう。今後数か月に渡る治療のため家族の通院代や医療費の一部としてご家族と大学有志が支援を求めている。
西川智也さんは2000年頃~映像作家、キュレーター、教育者として活動、現在はニューヨーク州立大学ビンガムトン校映画学部の学部長を務めている。映像作家としても重要な作品を発表し続けながら、近年は毎年帰国して米国最新エクスペリメンタル映画アヴァンガルド映画を紹介する活動もしている。
来年も新作と上映会を期待する。
Help support one of our community’s most generous and unique filmmakers. Tomonari Nishikawa was diagnosed recently with Stage 4 cancer and there is a gofundme to support his family: gofund.me/824134ea
ころころと玉の音はもういないあなたがたを素通りして転がり落ちると。わたしの足元に絡みつき蝉骸に転ずる。踏みつけないよう気を付けていたのに結局は平衡を失して。わたしはすべてを台無しにする。あなたがたが終わりに見たのはどんな眺めだったろう。とおくに広がるその空の青はあなたがたのもの。
蝉噪の止むことなき世界を赦しもせず諦めもせず黙したままあなたがたは見つめている。飢えも渇きも知らないわたしは献杯の一滴がこぼれたとて気づきもせず耳を傾けることもまっすぐに目を開くことも忘れただ闇雲に旗遊びに淫している。黙祷しているのか微睡んでいるのかわたし自身わからなくなってしまった。
鳴いているのは蝉なのだろうか。
真昼の暗闇にバラバラ降って来てはまなこ突き刺すガラスの破片にあなたがたはどんな光景を見たろうか。息絶えるための時さえ奪われてやがて野にさらされし白骨に燃える燐の見せる光景。あなたがたの終わりに見る光景。それは右手の先の虚空であってはならない。左手の先を照らす光で満たされんことを。
国家の名のもとに殺し、国家の名のもとに殺され、国家の名のもとに追悼される。けれど死者はどこにも属さないから死者なのだ。死者はパスポートを待たない。死者にはきっと名も必要なく。あなたがたよ、自由にとんでいけ。死んだ者の名を記憶せんと願うはわたしの責任逃れ。どうかその傲慢は赦して欲しい。
空の青がまなこうるおさんことを。