子育てを考える上で近々読みたい本。
Posts by まさ
エックハルトもやはり読まねば…か。
マルティン・ブーバー『我と汝』
電子積ん読開いてみる。
ふつうにマルティン・ブーバー読まないとな。積んでいる。
今宵はこちら。
松葉類『飢えた者たちのデモクラシー レヴィナス政治哲学のために』
さて、午後はレヴィナスに集中。
豆苗の水換えが楽しみ。
今日はフリーの休み。読書していきます。
今宵はしばらくぶりにフランクル。
若松さんのフランクル回視聴。何度も聴いてます。
#185 【特別編】★1本目無料★人生の意味と苦悩について――フランクルの言葉とともに - 言葉の秘義の指南役/若松英輔 @yomutokaku r.voicy.jp/jwmY3qLYV1a #Voicy
ワイヤレスイヤホンを失くしてしまって、家事しながら音声配信を聴くルーティンが崩れてしまった。
ケア論の中で今後開拓されるべきは、「ケアする人のケア」だと思うのだけど、僕の知る範囲ではフォーカシングなど心理臨床領域に特化している知見を、ケア領域全般に普及させていけるとよいと思う。介護領域では「アンガーマネジメント」は言われるようになっているが、問題は「アンガー」だけではない。
彼らの贈与論や贈与のテクストの読解も、贈与が人間を中心とみる見方から逸脱していく傾向があることを証言しているのではないだろうか。」p252
「だから、モースにせよレヴィ=ストロースにせよ、彼らの主張のなかには、贈与が異界の者、霊、死者、神々といった存在と深く関係をもっている限り、人間中心主義と言って終わらせられないものが含まれているのではないのか。
他の思想家のテクストでも、ヴェイユの愛の狂気も、神や神々の命令や神の「脱―創造」と深くかかわっていたし、マリオンも「与え」という根源的な贈与を神の愛と結びつけて語ろうとしていた。デリダによる「イエスの奉献」の解読もやはり人間と神の関係を表している。彼らも贈与が人間の枠組みのなかに収まりきれるとは考えていない。
「モースは「贈与論』のなかで、贈与交換は人と人との関係にとどまらず、「神聖な存在」とも関係をもっていると主張している。すでに見たように、マオリの贈与では、森の霊であるハウが物に宿っていると考えられていた。未開人や古代人の思考では、人と人の関係も、人と物の関係も「神聖な存在」 抜きでは考えられないのだ。そして、人が最初に贈与交換したり契約したりして関係を結ばなければならないのは、「神々」や「死者の霊」なのだ。というのも、それらが地上のすべての富の真の所有者だからである。こういったモースの主張を考慮すると、贈与交換は人間だけの狭世界の産物ではなく、神や霊といった存在も関係したものと言える」p251
岩野卓司『贈与論』
再読。
イヤホンよりふつうに耳栓が好き。
ふつうにおいしかった。
昼食、もやしと豆苗のナムル、オイルサーディンのパスタつくる。
國分さんの新刊、すごい。第1章は、2年前に読んだことがあって目を開かれたのだが、第3章の加藤典洋批判も、今読んでいていて、痺れている。
村上レヴィナス再入門。
その弱さが私たちを引き寄せるのは、その弱さに私たちが支えられ、自らを成り立たせ、生きる力を得ているためであろう。それと同時に、私を成り立たせるその他者への責任を感じ、応じずにはいられないのである。ケアは、人間の存在のあり方と深く結びついて成り立っている。これらは、身体という切り口からケアを考えて得られる視点である。」p36~37
「鷲田は「選択以前の応答 (réponse)、 そういう他者の苦しみに苦しむわたしの〈傷つきやすさ〉のなかに、〈責任〉 (responsabilité) というものの根がある」 (鷲田 2015 p.148) と述べた。苦しみに応じることはすでに、苦しみを感じることでもある(メルロ=ポンティ 1974)。だから鷲田は、他者の苦しみに苦しむと表現するが、この中に、責任の根があるというのである。それは、「他者のこのような切迫にふれつつそれを忘れること、判断を停止することは、それだけでもう他者への暴力となりうる」(鷲田 2015 p.150) ためだ。
村上靖彦『ケアとは何か』
読んでます。
「トラウマインフォームドケア」に興味が湧いてきた。
光と影、若さと老い、生と死、対立概念の底にあるものを考える。
鷲田清一『老いの空白』
すこし読みます。
固有な生を尊重すること、それは自己自身も固有な生を尊重することと繋がっている。その固有さは与えられたものであり、自我の所有下にあるようなものではない。それが腑に落ちるなら、他者の固有さは同じように与えられたものとして腑に届く。
他人、それぞれ固有の時間性、固有の世界を生きるもの。それを尊重することは、時に同一性を、同一性の延長としての日常を撹乱する。
それぞれの生が固有であるということ、そこに配慮したら日常が立ち行かなくなる。日常とはなんだろうか。同一性の延長として、そこに他なるものの介入を避ける傾向性。