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Posts by プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神bot

カトリック信徒のように様々な功績を積み重ねてやがては救いに到達することはありえない。カルヴァン派の信徒は常に自分が選ばれているか、神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、自らを絶えず吟味し続ける事で救いを作り出すことができるのである

49 minutes ago 0 0 0 0

快適な生活の享受とは縁遠い厳しい労働が必要とされるときにこれを集中する事も出来ないのである。過去の伝統主義にふさわしい在り方と対立するのは、このような特別の種類の倫理的な資質だったのである

3 hours ago 0 0 0 0

いずれにしても営利を自己目的とする活動は、根本的に恥ずべき事であり、社会の既存の秩序の維持の為に寛恕する必要があるにすぎないという感情は、決して失われることはなかった。

6 hours ago 0 0 0 0

カルヴァンは、救いの決定を下すのは、神であることをに認識し、真の信仰のうちにキリストに確固とした信頼を下すことで満足すべきである。他者の行動を観察すればその人が選ばれているか、神に見捨てられているかを知ることができるという見解を原理的に否定した。

9 hours ago 0 0 0 0

(予定説について)だから地上の「正義」という基準で、神の至高なる導きを測ろうとするのは無意味なことであり、神の至高性を損ねる事になるのである。

12 hours ago 0 0 0 0

顧客の要望と必要に合わせて品質を改善し、顧客の好みに合った製品を生産する事ができたのであった。そして薄利多売の原則が採用され始めた。このようにして合理化が行われてるときにつねに生じる結果が、どこでも発生したのだった。すなわち向上できない者は落ちこぼれるしかないのである

15 hours ago 0 0 0 0

ピューリタンたちはこうした営みに極めて深刻な懸念を抱いていたのだったが、その倫理的に決定的な重要性と枠組みを理解する為には、さらには深く考察する必要がある。

18 hours ago 0 0 0 0
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当時の人々は抽象的に見える教理ををどのように理解すべきか頭を悩ませたが、こうした教理が信徒の実践的で宗教的な関心と結びつくことを洞察できた場合にしかその意味を理解できなかったのである

21 hours ago 0 0 0 0

世俗的な職業労働がこのことをなしうるとみなされたこと、宗教的な不安を解消するためには、世俗的な職業労働こそが適切な手段であると考えられたことは改革派の教会のうちで培われた宗教的な感情に根差す根深い特性に基づくものだった

1 day ago 0 0 0 0

敬虔派は(略)いわゆる期日説である。この理論は反対派から敬虔派のものとされているが、神の恩寵は普遍的にすべての人に与えられているが、各人の生涯の決まった瞬間であるいは不特定の時点でただ一度だけ与えられるというものである。この瞬間が過ぎ去ると普遍的な恩寵は役に立たなくなる

1 day ago 0 0 0 0

私たちが知りうるのは一部の人間だけが聖別されていることその他の人々は呪われたままの状態にとどまるという事である。人間の功績や罪過がこの運命の決定に与っていると考えるのはまったく不可能なことである。永遠の昔から決定されている絶対に自由な神の決意を変えうると考えるようなものだ

1 day ago 0 0 0 0

信徒の魂への配慮の活動の為に書かれた文献は影響力が強いものであり、とくにそれぞれの宗派の決議論の綱領は重要なものであるが、時間がたつとともに様々な教団の間で互いに影響しあっていった。

1 day ago 0 0 0 0

敬虔派が育んださまざまな徳性は仕事に忠実な役人、雇人、労働者、家内工場の職人たち、あるいは家父長的な精神の雇い主たちが神に祝福される謙譲のうちで表現できるものだった。これに対しカルヴァン派は厳格で、実直で、活動的な市民的で資本主義的な実業家の徳性と親和性を備えているのである

1 day ago 0 0 0 0

宗教改革の人々にとって、人生で何よりも決定的に重要だった問題は永遠の救済を求める事だった。ところがこの予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないという事だった。

1 day ago 0 0 0 0

再洗礼派の運動はどの宗派においても教会ではなく教団を作りだしたことが、この違いをさらに強めることになった。カルヴァンでも敬虔派でもメソジスト派でも教団の内部で事実として自発的な共同体を形成せざるを得なかった場合には常に同じ結果になったのである

1 day ago 0 0 0 0

国王はこうした娯楽の合理性に対するあらゆる攻撃には厳罰で処するとおどしたが、まさに反権威的で国家にとっては危険な禁欲的な傾向を打破することを目的としていたのだった。

1 day ago 0 0 0 0
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(予定論について)ここにおいて世界を呪術から解放するという宗教的な偉大なプロセスが、ついに完了したのでる。このプロセスは古代ユダヤの予言者と共に始まり、ギリシアの科学的な思考と結びつき、救いの為にはあらゆる呪術的な方法を迷信や邪悪さとして退けるプロセスだったのである。

2 days ago 0 0 0 0

信徒たちは、かつて犯した罪を補うためとか、魂への配慮の一貫としてとか、臨終の時に備えてだとか、いわばある種の保険のようなものとしてその都度、善行を行っていたにすぎない

2 days ago 0 0 0 0

敬虔派では、現在において罪の赦しをえて神との和らぎと交わりを感じろうとする欲求が強いのである。

2 days ago 0 0 0 0

まず旧約聖書は新約聖書と同じように聖霊によって書かれた者であるために、その道徳的な命令は新約聖書と全く同じ権威を備えている

2 days ago 0 0 0 0

ベンジャミンフランクリンが表明しているような心情は、当時の民衆からは歓迎されただろうが、古代や中世であれば、汚らわしい吝嗇漢の言葉として、品位のない心情の表現として排斥されたに違いない

2 days ago 0 0 0 0

所有物の非合理的な使用とは、虚栄による贅沢な消費であり、封建的な感覚に近いこうした利用は被造物の物神化として禁じられた。これに対して神が望まれる合理的で功利主義的な使用は、個人の社会全体の生活の目的にかなうものとみなされたのである。

2 days ago 0 0 0 0

(予定説について)またどんな教会も助けてくれない。確かに教会の外に救いなしというのは正しいが、それが意味するのは、真なる教会のから離れてしまうと、神が選ばれた者になることができないという事になる。

2 days ago 0 0 0 0
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しかしソラ・フィデ(信仰のみによって義とされる)という思想が首尾一貫したものとして確立されると、カトリックの修道士の語る「福音的な勧告」というものなどは「悪魔からの勧告」に過ぎないとして、鋭い批判が向けられるようになる

3 days ago 0 0 0 0

ピューリタンの禁欲は、禁欲する人間に「情動」に基づいて行動するのではなく、「決まった動機」を主張し維持する能力を与えるのであり、この動機は禁欲そのものによって培われたのである。そして人格を構築するように人々を教育するのである。

3 days ago 0 0 0 0

そうであるならばプロテスタンティズムというものも、それが純粋な合理主義的な生き方の「早熟な果実」の役割を果たしたことこそが、その歴史的な意味だということになる。(略)本格的に調べてみるとこのような分かりやすい問題の立て方は不十分であることがすぐに明らかになる。

3 days ago 0 0 0 0

ウェスレーは時に善き業を恩寵をうけるために必要な条件と語ることがある。(略)善き業をなさないものは、真の信者ではないことが強調されている。

3 days ago 0 0 0 0

ルター派の信仰心では、最初から「世界」との関係がどのようなものであるかが不明確であったためにこれが特に顕著に現れた、ルターの思想圏は、パウロ的な現世への無関心から完全に抜け出していないために、そこから世俗の生活を構成する倫理的な原理を構築することはできなかった。

3 days ago 1 0 0 0

現在でも(略)こうした経済にあまり適用していない社会集団のうちでは、このような心情は同様に排斥されてるのである。それは資本主義以前の時代には「営利衝動」が知られてなかったためでないし、、

3 days ago 0 0 0 0

あらゆる感情的な要素に欺瞞の恐れがあると警戒していたカルヴィニズムとは対照的に救いの確実さを示す疑問の余地のない唯一の確実な基礎となるのは自分が恩寵を与えられた者であるという絶対の確信であり、聖霊の示しの直接性から生まれた純粋に感情的なものであるとメソジスト派は考えた

3 days ago 0 0 0 0