株式会社やおきん
Posts by やくーと
スーパーでうまい棒を数本買ったら2本ぐらいぐちゃぐちゃに握りつぶされていてげんなりしながら食ってる 私の住んでいる街はそういうところです
実は日の丸を侮辱しても全然OK
デモ警備に来る警察官の個人的信条とか市民に対してどう接しているかとかをこちらが気にする必要はありません 制服を着ている以上は上からの指示に従うしかないのでそこに個人の良心を期待するだけ無駄です こっちに丁寧に優しく接しているとしてもそれは「こうして接していれば言うことを聞く」という前例とマニュアルに則っているだけです
実際、日本の左翼運動内部における閉鎖性、ミソジニーや男尊女卑の問題は、構造的な問題として捉える必要がある。問われているのは、誰が発言主体として承認され、どの言葉が「正当な政治」とみなされるのかという権力構造である。 たとえば、他者を容易に「反革命」「団結破壊」などと断じる言説は、単なる政治的対立ではなく、特定の語彙や前提を共有しない人の存在を排除している。その結果、そうした文脈を共有しない語りは未熟だと見なされ、運動から周縁化される。また、抽象的な理念やイデオロギーを優先し、目の前の差別やハラスメントを軽視する態度は、普遍的な主体を掲げながらも実際には特定の──多くの場合男性中心的な──主体を前提としている。 さらに、運動内部の発言力は経験や知識、振る舞いによって左右されるが、その基準自体がすでにジェンダー化されている。結果として、女性や非典型的な主体は発言しにくく、発言しても軽視され、集中的に攻撃される。これは運動内部で権力が再生産されている状態だ。
このペンライト運動について「若い女性が増えている」「いままでになく新しい」という言説が流通しているが、それ自体も批判する必要がある。一見すると肯定的な評価に見えるが、「オシャレだから来た」「雰囲気が柔らかいから参加しやすい」といった説明は、参加を外見や空気感に還元し、その意思を矮小化している。そこでは女性は、自律的に判断して行動する主体ではなく、場に受動的に反応する存在として描かれているにすぎない。そして、これまで声を上げ続けてきた女性の存在を見ていないということでもある。あたかも今回になって初めて女性が参加したかのように語ることは、過去の実践を不可視化し、その積み重ねを切り捨てることにつながる。 また、「運動がマスキュリニティから解放された」という理解も表面的である。実際には女性が集中的に誹謗中傷の対象となっているにもかかわらず、スタイルだけで変化を語ることは、現在の差別や暴力を見えにくくしている。見た目の「柔らかさ」が強調されるほど、その背後にある権力や排除はむしろ隠されやすくなる。
さらに、「若い女性」というラベリング自体が、参加者の多様な動機や背景を切り捨て、外部から意味づけて消費する視線を含んでいる。本来そこには異なる経験を持つ個人がいるはずだが、それらの差異は回収され、均質なカテゴリーとして扱われる。そのうえで「なぜ参加したのか」という説明が外部から与えられ、参加者の語りは奪われていく。 こうした言説は、これまで運動の中で周縁化されてきた人々の参加を、表面的な特徴だけで切り取り、「新しさ」や「変化」として消費する態度である。なぜ排除されてきたのか、どのような困難や屈辱に直面していたのかといった問いは置き去りにされ、参加そのものが記号的に利用されている。 参加者はあくまで一人ひとりの個人であり、そのあり方は他者によって決められるべきではない。「若い女性」というラベルで一括りにすることは、個々の経験や判断を抹消し、既存のジェンダー秩序を再生産することにつながる。そのラベルはしばしば暗黙の期待や規範を伴い、「らしさ」を押し付ける装置となる。結果として、既存の枠組みの中でしか意味づけられない。
だがより重要なのは、アクションが他者の排除へと傾きうる危険性である。実際、ビラ配りをする宗教団体や「過激派」を排除しかねない声も耳にする。初参加者がそれらを「よくわからず怖い」と感じるのは自然なことだが、その「怖い他者」という感覚をそのまま排除の根拠とすることは、対話の可能性を閉ざすことになる。現場の混乱や不確実さを前提としつつも、可能な限り対話を試み、双方にとって受け入れ可能な形を模索したい。 実際、2015年の安保法制のときにおいても、「過激派」と見なされた人々が一方的に排除される事態が発生した。誰もが参加できる場を維持するために「過激派」嫌悪を煽ることは、結果的に分断をさらに深め、国家権力の介入を招き、運動の可能性を狭めることにつながった。その失敗は、いまだ十分に共有されているとは言えない。 現在でも「誰でも参加できる場」を掲げながら、特定の人を排除するという構図は珍しくない。安全や安心を理由にした線引きは正当化されがちだが、その基準自体が問い直されることは少ない。こうした排除の論理を無自覚に受け入れることは、運動内部に新たな序列を生むことになる。だからこそ、過去の失敗を現在の実践から引き受け直す必要がある。
【平和憲法を守るための緊急アクション】ペンライトの光は勇気──閉鎖性とミソジニーを乗り越えるために
note.com/jinminshinbu...
先日の梅田ヨドバシ前アクションの報告記事という立てつけで、普段運動に対して感じていることを書きました
┃; ̄口 ̄┃「国歌歌唱は政治的行為にあたらない」で、今まで着席、閉口、無言で「君が代」に抵抗した学校のセンセ方を処分してきたのと理屈通るのけ?
一旦就業規則と雇用契約書を見てから判断する必要がありそうだ
なんで非常勤職員が最近よく常勤職員の労働相談に乗っているのかよくわからないけど、まあこれも私が職場で築いてきた信頼関係ということで
うーん一旦話を聞いてみる必要があるなあ
本人の望まない異動って拒否したり団交に持ち込んだりすることってできるのかな
動員の言説は過激であればあるほど力を増すので、インターネット上だと60年代の新左翼運動のように、際限なく過激さが競われていく(これは左右を問わない事象です)のだけれども、今必要なのはあちらこちらから動員しようとする力に抗える強い個人を形成することだと私は思うので、blueskyが今後もそういう(おそらくは不人気な)言説の存在の余地がある場であり続けて欲しいですね。
知り合いの色んな人に裏で陰口を叩かれてSNSでデマを広められていたみたいな夢を見て、現実ではないはずなのに厳しい
やっと入荷しました。
石田隆至・張宏波編『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』(日本東方出版社、2025年)
『人民新聞』2026年3月5日号に太田やくーと氏による書評が載っています。合わせてのご購入はいかがでしょうか。
『図書新聞』2026年3月28日号にも、早尾貴紀さんによるこの本の書評が載っています。先日終刊してしまった『図書新聞』ですが、いまのところこちらのオンラインショップからウェブ版・紙版どちらでも購入できます。 toshoshimbun.com/online_shop
グエー厳しい
いまから研究テーマ変えてなんとかなるんかな
本当に一旦休んで色々と考え直したい
酒を買うためにたまたま入ったコンビニでフランス人(と言っていた)人から「フリーパレスチナ」とこそっと言われて、普段クフィーヤーとか身にまとっていてよかったなと思った
この土日はいっぱい休むんだ
【海外寄稿】インドネシアによるトランプのガザ「平和評議会」参加が示す、バンドン精神の没落(現地研究者からの分析)
note.com/jinminshinbu...
私が人民新聞で翻訳した寄稿記事、全然反応がなくて悲しいぜ
「やくーとは他者に対して罪悪感をいだきすぎていてそれもよくない」という話を先日知り合いにされ、どうしたらええねんの気持ちに
せめてブルスカでだけでも疲れたと言わせてくれ
グエー本当にしんどい
こういうことをビラまきのときに話していて、実際問題として親が学費を払っていたら子どもは言いなりにならざるを得ないという話、実家から大学に通う学生は親からの圧力を(授業から就活、私生活まで)常に受け続ける話、そういう関係で親はいつまでも「保護者マインド」が抜けないのではないか、と話していました
つまりイエからいつでも離脱できる環境が必要であるということです
大学の入学式ビラまきに来てるけど、大学の入学式にまで親が来てるのはどうなんだ
新歓イベントでこんな話しても新入生は興味ないだろうしな…
推し活民主主義=推し活ファシズムみたいなことを何かで考えたいと思っているのだが、すでにそういうことは私の学部時代の指導教員が書いている
推し活するためにも平和が必要だから反戦平和、自国だけがいいってことになりかねなさそうだし、推し活のための他国搾取も肯定しそう
「平和憲法」って他国に向けた“不戦の宣言”だったはずが、国内向けの“平和のお守り”みたいな扱いに転倒してるのはちょっとどうなんだろうと思っているのだけど、外に対する責任の問題を内側の安心に回収してしまう構造そのものが戦後民主主義なんだろうなとも思う
いままで何度も沖縄やパレスチナのデモに参加してきたが、日本の「平和憲法」が危ういという話になるとそれの何倍もの人が集まるというのは、うーんという気持ちにはなってしまう