5月16日(土)夜に、神戸・須磨の自由港書店さん主催にて『エミリー・ディキンスン詩集 斜めに射し込む光』の朗読とお話会をひらきます。15-17日の週末には詩の展示も同時開催です。よろしければ是非お運びください。
詳細・申込みはこちらから
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Posts by Wakako
時間が取れたのでディキンスンの訳詩を。新たな短い詩を一つと、しばらく眠らせていた詩を一つ。後者は日付を見ると着手したのは六年近く前だった。当時どうにもうまくいかなかった箇所が、今回は意外にも言葉の波に乗れた気がする。すべてのことには時機がある
聖金曜日
素晴らしい夜だった 未完で途切れた最後の一音の後に拡がる、静寂の宇宙
4月。今夜は念願だったシフのフーガの技法を聴きに。夜に向けて心身を整える
少し先になりますが…
神戸・須磨の自由港書店さんにて、5月16日(土)夜にディキンスン詩集『斜めに射し込む光』の朗読会をひらく予定です。その週末にはささやかな展示もさせていただきます。詳細は追ってお知らせします。
画像は以前に訪れたときの須磨の海と空。
しばらく告知の活動はお休みしていたけれど、最近知ってくださった方もいてお問い合わせもいただいたので、あらためて。
こちらでもあらためて告知を・・
私家版エミリー・ディキンスン詩集『斜めに射し込む光』、以下の書店にてお取り扱い中です。
・草舟あんとす号(東京・小平)
・庭文庫(岐阜・恵那)
・自由港書店(兵庫・須磨)
・古本と珈琲モジカ(京都・福知山)
お近くの店舗、または各ウェブショップにてお求めいただけます。どうぞよろしくお願いいたします*
昨晩はライブへ。アンビエント系は久々で、soundの海の中を揺蕩った。詩のような、短い言葉が二行浮かんだ。その意味はわたしにも説明できないし、秘められているからこそよい
拡く多くでもなく、また権威や名声でもない、出会うことのない一人の読み手(たち) に届けること To Hands I cannot see- がエミリの希いだったと思う こうして手渡す媒介となれたことが嬉しい
ディキンスン詩集『斜めに射し込む光』、庭文庫さんのオンラインストアに、お読みになった方のレビューが・・
“エミリー・ディキンスンをあらゆる詩人の中で最も愛する”方からの言葉。これから何百回も読んでくださると・・感激しています。ありがとうございます。
niwabunko.stores.jp/items/6975c2...
滞在していたのは物作りをする友人宅。ワークスペースの中央に『斜めに射し込む光』が大切な絵のように据えられていて、心から嬉しかった
先日の旅の記録続き。移動が多かったけれど、最後は友人宅でのんびり。散歩と美味しい食事。このお家の猫は、年に一度くらいでも行くとすぐにすり寄ってくれて、足元や荷物の近くにいてくれる…至福のとき
トーベ・ヤンソンが話題になり、おすすめいただいて『誠実な詐欺師』を。消しゴム版画のディキンスンの栞もいただいて嬉しい。噂の(?)玉子サンドも美味しくいただきました
旅の記録続き。友人と、京都・福知山にある古本と珈琲モジカさんへ。関西の方々からよくお話に聞いていて、前から訪れたかった場所。さまざまな本を手に取ったりお話を伺ったり…外国語文学や幻想系文学が充実している、本を愛する方々が集う豊かな場。入り口には中島敦『文字禍』が。
旅の記録。久々に須磨の自由港書店さんにご挨拶。前から気になっていた本も購入。小さなカゴは、昨年朗読会の会場にさせていただいた、書店2階のラトビア雑貨店SUBARUさんで求めたもの。とても素敵なお店で、刺繍の紋様のことや、ラトビアの四行詩のことなどお話を伺って楽しいひとときに
オディロン・ルドン展「夢の交叉」ポスター
名古屋、ヤマザキマザック美術館にてルドンを。岐阜県美の展示で観て再会した作品が多いけれど、場所と時が変わればまた見え方感じ方も変容する。今回ふと思い立って行ってみて良かった
名古屋、神戸、京都への旅の記録をこちらでも投稿してみる
詩集のこと。「小さな私達が神と交わらんとする心が切ないまでに言葉にされている」と書いてくださった方がいて、何かを掬ってもらえた気がした。それはわたしの言葉というよりエミリの言葉のことだけれど、それが嬉しいのだ
馴染みのある方々を少しずつフォローさせていただいています。
今年は訳詩集と展示のためにずっと動いていたので、無事に終えられて、今は放心状態でぼんやりしている。なんだかお腹も空いて、毎日たくさん食べてお酒も気ままに飲んで。エネルギーを使っていたのだろう。今年を振り返ったり来年を考えることもできない。ただただ、受けた光の中に立ちすくんでいるような。
2年くらいここを放置してしまった。けれどまた実験的に使っていこうかなと。こちらでは日常的なことをもう少し呟いてみようかと思う。また使わなくなるかもしれないし、他SNSとの住み分けができてくるかもしれないし、わからないけれど。
三連休明け、急な変更で今日も休日となったので、美味しいパンと珈琲を飲んだあと、隅田川沿いを歩いた。秋空が視界に広がり、ランニングや犬の散歩をする人が数人だけいて、あとは橋と川の流れのみ。なんとも静かで、どこか外国に旅にきたかのようだった。若い頃に見たテムズ川を思い出す。拙い英語で、たまたま居合わせた老人と話した。わたしではなく、川の記憶が甦ったのかもしれない
原稿がほぼ終わって、詩集という形になるはずだけれど、なんだか現実味がなくて不思議な感覚。直しをしていて、読み易さを考えて変えた箇所をやはり元に戻した。塩梅が難しいけれど、そこは元のままの方が言葉にエネルギーがあるように思えた。
書いていてどうしても着地しない詩がある。着地というと語弊があるかもしれない、どうしても手離れしない、とでもいおうか。放たれて飛んでいってくれない。まだわたしの執着のようなものが重石になっているのかもしれない。何度も直しているけれど手を入れ過ぎるのも良くなくて、また元に戻す。言葉と自分との間合いをはかる
雨。予定を変更し静かに過ごす一日にした。しばらく置いていた原稿を持って、近くの喫茶店へ。場所が変われば、わたしも文字も変わる。詩は音も大切だけれど「字面」が美を司ると思っている。画として美しいか。好きな詩人たちの詩はみな眺めるだけで美しい。「語意」ではない意味の世界はそこに立ち上がっている。
日記に8月、と書いた後にすでに9月だったことに気付く。わたしの8月は過ぎていった。夏は得意とは言い難いがやはり好きなのだろう。夏の雲は存在の姿そのものなのではないかと思う。エミリ・ディキンスンの詩「夏の空を仰ぐこと それは詩だ」という作品が体験として入ってきた夏だった。ところで、夏の空を"see"、は「見る」「眺める」など様々に訳が考えられるけれど、この詩では仰ぐと訳したくなる。どこか尊ぶようなー しかしただ真直ぐ「見る」とするのもまた、主客の素朴かつ直接的な結びつきがあるようで良い。訳詩は、詩を詩にするところがどこまでも難しく、また知性と美的直観との究極の営みのようにも思える