Posts by ぼのぼの
トランプ=イーロン・マスクの政治カラーがTwitter(X)でますます強くなったら、本当に別のSNSへ軸足を移さざるをえないかもな。BlueskyやThreadsでも、今のTwitterの有料プランのように、ある程度の長文が書けるといいのだが。
このフェルメール風アメリカンショートヘア、かなり良い。後ろの絵がえらく雑で肉球の描写も適当、それにフェルメールはこんな風に露骨な光線を描かないけれど、そこはあくまでも「フェルメール風」ということで、10秒で生成された絵としては素晴らしい出来だ。
その構造に気づかぬまま読み終えても、本作が紡ぎ出す生と死のイメージ、「今自分がここに存在することの危うさ」には心が震える。しかしこの作品構造を理解して読んだなら、その感動は損なうことなく、何倍も広く、深い世界が見えてくるはずだ。もう一度読み直さなくてはなるまい。
とは言うものの、ひとつの作品としては少し狐につままれたような印象も残したまま「作家の言葉」まで読み終えた。その後、翻訳者の解説で作品の構造を知らされたときのショック!
本作を読み始めた人なら誰しも「詩的」という印象を抱くだろう。しかしある作品を「詩的」と決めつけた瞬間、全てをイメージ優先で受け流し、論理的な理解を疎かにする落とし穴が待っている。確かに読んでいて「ん?」と思う部分はあったのだが、それを「詩だから」という理由で流してしまったのは間違いだった。
基調音となるのは、生まれてすぐに亡くなった作者の姉。その生と死について綴られる言葉は、私小説のようでありつつ、宇宙的とすら言える広がりを見せ、「もし彼女が生まれていたら、おそらく自分は今ここにいなかった」という現実の残酷さを突きつける。
いや、それははたして残酷と言えるのだろうか。残酷だとすれば、それは誰にとって、どのように残酷なのか…「ひとりの人間が今生きてここにいること」の不思議さと不条理に、頭がクラッとする。
『すべての、白いものたちの』ハン・ガン/斎藤真理子 訳
昨年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの作品を初めて読んだ。私小説と詩とフォトエッセイが混ざり合ったような作風に軽い戸惑いを覚えたが、それを凌駕する言葉の美しさとイマジネーションの喚起力。確かにこれは、最良の意味で「文学」以外の何ものでもないことを痛感する。
ラスベガスでのサイバートラック爆発事件で、イーロン・マスクはメーカー権限で爆破によってロック状態だった車両をリモートで解除し、最後に充電されたステーション以降の車載カメラ映像を当局に提供。
改めてテスラ車を購入するという行為は「車両に乗る権限を与えられる」だけであって、オーナー情報や上位権限はテスラ社とイーロンにある事が浮き彫りになった、という記事。
あれだけXで自由にオーナー権限を振りかざしている事を考えると、これはかなり怖い事だと思うんだよな。
www.404media.co/elon-musk-us...
【重要】新時代に合わせた進化を遂げると決心した私は、今年からAI生成画像をバンバン使うことにしました。皆様におかれましては、高いリテラシーをもってフェイクとトゥルースを見極めてくださるようお願いいたします。
SNSが増えすぎて、放置したままのものが多かったので、今年から「使い分け」なんてものを真面目に考えないことにした。特に短文主体のTwitter/Bluesky/Threads/mixi2に関しては、基本的に同じものを何も考えず投稿することにしたので、よろしく!
昨日までと打って変わった、この鬱な天気は一体何なの(´・ω・`) 風がなくて、そこまで寒くないのが救いだが、ポジティヴな気分を減退させる。
その後は年初で無料観覧ができる東京都写真美術館へ。
「アレック・ソス 部屋についての部屋」と「現在地のまなざし 日本の新進作家 vol.21」を鑑賞。
到着したら、ちょうど雅楽の演奏が始まるところで得した気分。
1月2日、本年の映画初めは、恵比寿ガーデンシネマで30数年ぶりの『バグダッド・カフェ』4Kレストア版。昔見た時よりもずっと感動した。良き映画初め。
2025年、あけましておめでとうございます。
多くの人にとって、より良い年となりますように。
本年もよろしくお願いいたします。
#謹賀新年
今年は2025年。オウム事件が起きた1995年から30年。もはや当時のことをよく知らない人も増えているだろうが、日本社会から自由を重んじる雰囲気が後退し、「公の安全ために個の自由は制限されても仕方ない」という風潮が強まった大きなきっかけが、あの事件であることに最近になって気がついた。
もちろん公と個の問題は常に微妙なバランスの上にあり、個の自由をどこまでも重んずべしと言うつもりもないが、近年は個に対する圧力が高まりすぎだと思う。
公>個を正当化する1つの理由として、あの事件のショックが影響しているのであれば、ますますもってとんでもないことをしてくれたものだと…
2024年に世を去った全ての人の魂に捧げます。
www.youtube.com/watch?v=MYrX...
調べてみると、ThreadsとBlueskyでは、Threadsの会員数の方が十数倍多いのね。あちらはInstagramと事実上一体化しているからな。
塩田千春ポテトチップス すごい、そんなグッズがあり得たとは
sayuras ONEMAN LIVE「do or die」(shibuya WWW)
2024年11月1日(金)19:00〜
トランプの返り咲きでイーロン・マスク率いるTwitterが、ますます共和党の宣伝メディアと化す恐れ。他のSNSに少しずつ軸足を移すべきなのか?
そりゃ授業は先生のためにやるものではなく生徒のためにやるものだから…(´・ω・`)
私はバッグの中に常にポリ袋を用意していて、ゴミはそこにまとめるようにしています。
本作で描かれる優しい人間関係は、確かに心地良い。しかしその底に流れているのは「全てのものは必ず変化する」という無常観であり、誰もが他者に優しくできるが、誰かを決定的に救うことはできないという諦念だ。
『夜明けのすべて』に溢れる優しさは、宇宙空間を思わせるような孤独と無常観の裏返しなのだ。その厳しさと奥深さが、この映画を特別な存在にしている。
「宇宙の広大さについて考えると、日常的な悩みなど馬鹿馬鹿しくなる」とよく言われる。それ自体は正しい。
しかし少し視点を変えれば、こうも言える。
「どんなに宇宙が広大で美しくても、それは今自分の前にある悩みや苦しみには一切何の関係も無い(=何の救いにもならない)のだ」と。
夜空に輝く星々の光は、何百年何千年年も前のもの。今目に見えている星の中には、すでにこの世に存在しないものもある…そこに壮大なロマンを感じることもできるが、果てしない虚無と孤独を感じるのも間違った感性ではないだろう。
ほとんど遺書のごとき、この切実なメッセージを、栗田の弟はどういう心境で逆さまに書いたのだろう…そこに思いを馳せたとき、胸の奥底をギュッと掴まれたような思いにとらわれた。そして確信した。この映画のもう1人の主人公は、すでにこの世にいない栗田の弟なのだと。栗田科学のような環境に恵まれ、星空に関わる仕事を愛していても、やはり命を断たずにはいられなかった人物がいた…それはまさしく藤沢と山添の陰画のごとき存在だ。
その点は最初に見たときから理解していたのだが、再見で初めて気がついたことがある。藤沢がこのメモを発見した時の描写だが、この「夜についてのメモ」は、ノートのページがかなり飛んだ後ろの方に【逆さま】に書かれていたのだ。
そして栗田の弟は「このままずっと夜が続いてほしい。永遠に夜空を眺めていたいとしばしば思う」と語る。さらに「そのような人間の思いとは無関係に、必ず夜と朝は交互にやって来る。同じ夜も同じ朝もなく、そして悲しみも喜びも必ず終わる」と続ける。
これが自死した人物の残したメモであることを考えれば、希望と表裏一体の絶望、「悲しみは必ず終わる」ということは「喜びも必ず終わる」ということと同義であることが伝わってくる。だからこそ栗田の弟は、「誰もが孤独である」ことを実感できる暗闇の心地よさに惹かれ、そのままあちらの世界に行ってしまったのだろう。
そこで主役となる言葉は、彼らが書いたものではない。栗田の自死した弟がノートに書き残した「夜についてのメモ」だ。そこで栗田の弟は、夜明けをあらゆる生命の源とする一方で、暗い夜があるからこそ地球の外の世界に気づくことができる…と語る。これは本作の全てを最も端的に表現した言葉だろう。昼の光ではなく、夜の闇があるからこそ、人は自分の知らない世界に気づくこともある。そこで初めて星々(=人間)がいかに孤独な存在であるかを知ることができるのだ。
本作のクライマックスとなるのは、藤沢がプラネタリウムで解説を語るシーンだ。しかしこれが非常に屈折している。山添と藤沢が力を合わせて作り上げた星空の解説は、このシーンにおいては大した意味がなく、前振りレベルでしかない(それよりずっと前のシーンで、「この宇宙に変わらないものなどない」と作品の重要なテーマを表す言葉が語られている)。
本作の成功の大きな要因は、原作を改編して、栗田科学を星空(プラネタリウム)と結びつけたことだ。孤独な宇宙に浮かぶ星々が、この世界に生きる人間のメタファーであることは誰にでも分かるので、その辺は割愛しよう。前回もチラリと述べたように、本作の価値は「夜の闇」に「夜明け」と同等の意味を与えたことにある。