2026年4月9日(木)夜
『飯山由貴 《 In - Mates 》 《家父長制を食べる》上映会・トーク ─抵抗の方法と出会う─』に参加するため、book cafe 火星の庭 を訪ねた。
飯山由貴さんという美術家については、断片的な情報しか知らなかった。在日朝鮮人をテーマとした監督映画が東京都により上映中止とされたことに、抵抗をつづけていること。国立西洋美術館での企画展のさなか、館のスポンサー・川崎重工によるパレスチナ虐殺加担に、強く抗議活動を行ったこと。だが、そのふたつの行動についての気がかりが、日々の情報の洪水の中でも流されることなく、どうしてか心の中に残りつづけていた。
火星の庭のちいさな店内の満員の客席の前に、飯山由貴さんが座り、ともに二本の映画を見た。
《In - Mates》。
しばらく前に、安田浩一さんの『地震と虐殺 1923-2024』を読んでいて、その中に、先述の上映中止の挿話が印象深く書かれていた。その読書で、又聞きのように得た情報の中で、「過激な」映画のような先入観を勝手に抱いていた(なお、ここでいう過激とは、たとえば流血や絶叫といったショッキング性のことでしかない)。だが、初めて向かい合ったその映像は、全編を通じて、きわめて静謐なものだった。
1930-40年ごろに脳病院に入院させられていた、ふたりの朝鮮人患者の死がテーマだ。詳しいことはわからない。ふたりの間で何かトラブルがあり、それが死期に影響したようにも取れるが、詳しくはわからない。入院中いつも、患者は母国のことばで歌をうたっていて、だがその歌が何を意味するのか、誰も知らない。歴史に翻弄され、消えていった、ふたりの生を、在日コリアンのラッパー、FUNIさんが、自らの肉体に宿らせるように歌い、物語る。
脆く、靭く、哀しく、可笑しく、かけがえのない、ささやかな命の実在が、そこに見え隠れする。そしてそれを押し潰した、植民地主義の残酷も。
かれらの死に十数年さきがけて起きた、あのデマと差別の最悪の帰結、関東大震災における朝鮮人虐殺は、この映画においては重要な背景というべきものであって、決して主題そのものではない。だが、朝鮮人虐殺が語られているという点において、この映画の上映を、東京都は許さなかった。検閲というしかないその暴力に対する、飯山さんたちの抵抗にも、なにひとつ聞く耳を持たなかった。
そのことは、また今この時代においてなおも膨れ上がる差別と排外主義は、あの朝鮮人虐殺と植民地主義のつづきなのではないか。何も終わっていない、何も解決していない。脳病院で無名のように死んだ命が歌っていた身世打鈴は、まるでそのことにあらかじめ抗っていたかのように、飯山さんやFUNIさんへと届き、またわたしたち観客に問いかけている。
《家父長制を食べる》。
髪を切る音から始まる。美術家の坊主頭は、男女どちらとも見えるように、という意味合いもあろうが、まるで懲罰のようにも見える。しかも鋏を操っているのは美術家自身であり、それは自罰や、内在する社会の暴力を感じさせる。
乱雑な裸形の頭部で、美術家は、家父長制という概念を、捏ね、千切り、焼き、そして食べる。ユーモラスに、グロテスクに、痛快な反撃のように、殴られた痛みのように。家父長制の隣に横たわり、嗚咽する。無数の女性たちの痛みが、つかのまそこを通りすぎる。
これは個人的な映画だ、ということを飯山さんは呟いていた。おそらく観る者の属性によって、まるでまったく違う映画のように、異なる感覚を与えるだろう。これも個人的なことだが、今ここで小文を綴るわたしは、シスヘテロ男性・非障害者であるという点において特権性・加害性を付与されていて、かつ非正規雇用・脱出困難な貧困層であるという点において社会的弱者・少数者でもある。パンとして食べられる者、また不完全ながらに反転して、パンを食べる者、その両者を往復する、矛盾する感覚に襲われた。だが、切り落とされた髪の毛が女性性であるのなら、終幕に美術家がそれを食べる行為は、わたしたち「特権者」側のものが決して簒奪・搾取してはならない、彼女たちの奪還の表明なのかもしれなかった。
付記。
2026年4月現在、この国では、ペンライトデモと呼ばれるムーブメントが起きている。NO WAR、平和憲法を守れ、を合言葉に、社会運動としては異例なことに、一晩に数万人の市民が参加する規模となっている。わたし自身もその運動に参加し、9条維持を掲げている。持ち寄られるペンライトの灯りは美しく、勇気を持って参加した人びとに敬意も抱く。
だが、この上映会の夜、飯山さんが、話の流れの中で、『日本国憲法が持つ差別を知った上で、その憲法を守ろうとしているのだということを、忘れてはならない』という意味のことを仰っていた。きわめて重要な指摘だろう。
天皇制という家父長制や、日本国民という主語の限定性、それらがもたらす差別。9条という平和の祈りがありながら、そこからは除外されたような沖縄。日本国憲法は決して聖典ではなく、そこから除かれて在るひとや土地のことを、わたしたちは自覚する必要があり、しかしそれと同時に、高市早苗をはじめとする権力者たちのエゴイズムによる改憲に抗わなくてはならない。
抵抗とは、決してヒロイズムに堕することではなく、自らの加害を同時進行に識ることも含む。朝鮮のことも、沖縄のことも、パレスチナのことも。本イベントの副題となった「抵抗の方法と出会う」を、わたしはそのように受け止めた。
2026年4月9日(木)
飯山由貴
《In - Mates》《家父長制を食べる》
上映会・トーク
──抵抗の方法と出会う──
『book cafe 火星の庭』にて
参加しての感想を書きました。