永青文庫「熊本城─守り継がれた名城400年の軌跡」。
細川家国替えの噂に、忠興は息子忠利?に宛て、「長門&周防、あるいは筑前ならば極上々」「熊本だったら中吉」と評価。
そして・・・😅
Posts by 今福 匡
東博「百万石!加賀前田家」観ました。
百万石の実力というよりも、前田綱紀という殿様の壮大なヴンダーカンマーであるな、という印象。
気になったのが、前漢時代の「玉璧」が出陳されていて、解説には文政元年、日向国で石棺から見つかったとか。一時、松浦武四郎が所有していたらしい。
なおこの「玉璧」、グッズ売り場でクッションになっていました。
昨日、長篠へ行って、今日、映画「長篠」を観てきました。
公開館が増えず、近所の館に来るのを待っているうちに上映が終わってしまうかも、と思い、急遽、池袋へ。
山県昌景さんが特殊メイクで兎唇になってると思っていたら、終劇後、劇場の方が「山県昌景役・大岩さん(大岩主弥)が急遽いらしてます!」とアナウンスされていたが、侍姿から逆算しても見つけられず😆
個人的には、「信虎」の方が好きかな。
やはり、ディテールに凝るだけでは、いい作品にはならないのではないかな。
新城散歩。長篠設楽原合戦戦没者位牌、コロミツ坂、大龍不動桜、ししラーメン🐗
豊橋散歩。二連木城址、吉田城址、ウルトラマン推し、ちくわかまぼこのヤマサ。
長篠・設楽原の戦没者位牌、百柱。
平野明夫・角明浩・新保稔各氏より
『新解明・徳川家康の時代』文学通信
を御恵贈賜りました。
御礼申し上げます。
平野氏は「家康の時代を解明するには」「戦国大名徳川家中の婚姻」
角氏は「「関ヶ原合戦」における堀秀治の動向」
新保氏は「上杉氏の敗戦・減封と地方知行」
をそれぞれ執筆されています。
扇谷上杉氏の拠点・深大寺城址。しかし、北条氏綱によって河越城を攻略され、軍事的価値が低下。それがかえって上杉時代の景観を残したとも言われる。
さっそく『越前・若狭古文書選』所収の「上杉・石田連署状」確認した。
弾正少弼、治部少弼と翻刻してあるが、大丈夫か、これ? 写真版がないのでなんとも言えないが。
いずれにせよ、何の縁も権益もない越前府中に、景勝が三成と連署で在地に文書発給することは考えにくい。
>その青木の旧領越前府中が蔵入地に設定され、石田三成・上杉景勝が条規を定めているらしいが未確認。
敦賀の学芸員さんから御教示。やはり景勝ではなく浅野長政の誤りらしい。”弾正少弼”に引きずられたか?
『大日本古文書』『史料綜覧』が間違っている。気をつけないとなw
これ、同日付の羽柴筑前中納言(北ノ庄→筑前)、羽柴北庄侍従(越後→北ノ庄)、山口右京進(越前→加賀江沼郡)宛の知行宛行状案に関連したものだろう。「羽柴北庄侍従」は『毛利家文書』『史料綜覧』等では堀秀治としているが、越後へ移したばかりの堀を1年立たずに旧領に戻すのもおかしい。
『毛利家文書』所収「羽柴北庄侍従」宛案文は、青木重吉の誤りだ。そして、今回発表された文書がその原本であろう。
『福井県史』他の史料集は比定済みか。
その青木の旧領越前府中が蔵入地に設定され、石田三成・上杉景勝が条規を定めているらしいが未確認。
www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/2...
おお、主演ふたりも続投、まさに直接の続編になるんだね。
瓦礫が浮いているの場面って、まさか、キングギドラの引力光線?
G-0.0はグラビティ・ゼロ?
youtu.be/kJFpjFmc6uA?...
戦場に赴いても、刀・槍傷より虫さされを気にする石川数正w
#豊臣兄弟!
戦国史研究会、会場参加。
水谷祐文氏「禁裏修理からみる戦国期の朝廷運営と足利将軍─足利義輝期を中心に─」
会場参加にしたのは、某所から「(例会で)展示のチラシ配って」と依頼されたから(^_^;)
岸野達也氏より抜刷拝受。
「足利国朝・喜連川頼氏の家臣団」
「足利義親の系譜と江戸時代の古河足利氏」
記して御礼申し上げます。
『土肥家記』という二次史料の面白いところは、引用している文書に花押や印判(原本と同一かどうか要検討だが)を貼り付けたり、原本の所有先を書き込んだりして”情報源”を重視している。
加えて、原文書の紙の種類や判型を書き込んでいるものも多い。
「立文」は、よく使用されていた竪紙のことだろうか。
書かれている内容を鵜呑みにすることはできないが、叙述を裏付ける文書の存在もあり、合戦場面も軍記類にありがちな誇張された描写がない。さらには、編纂物が当事者のひとりの孫という環境も特筆される。
花押に続いて印判の話も。『土肥家記』所収の景勝朱印状で、「此朱印誰人ノ印ニ候や、不知之、美作殿御朱印カ」と書き込まれている。これは、景勝の「立願勝軍地蔵摩利支天飯縄明神」朱印であるが、有澤は祖父の旧主土肥美作守のものかと記している。
この文書原本は有澤家に伝わっているが、すでに孫の永貞の時代には誰の書状かもわからなくなっていたのである。
逆に、景勝が戦国大名の身分として他国の国衆たちに文書を発給していた頃は圧倒的に花押a型が多かった。栃屋氏所蔵文書が伝来していればはっきりすることであるが・・・
『土肥家記』写真パネルは市博の1フロアを埋め尽くしている。図録には翻刻は全文収録されているものの、写真パネルは断片的にしか収録されておらず、花押影の貼り込み編纂者の書入れは会場の写真パネルを確認するしかない。
『土肥家記』編纂者有澤永貞(土肥家家臣有澤采女の孫)は、景勝の花押b型をどこから持ってきたのか?という疑問も生じる。『土肥家記』には、越前の栃屋氏(同じく土肥旧臣)が原文書を所有している旨の書入れがあるが、そこから直に写した花押である確証はない。
加賀藩に仕えていた有澤永貞は、前田家が所有する景勝署名の文書(例えば豊臣政権下での大老連署状など)を目にすることはできただろう。その大半は花押b型だったと思われる。
滑川市立博物館「越中土肥氏が駆け抜けた戦国」における『土肥家記』写真パネルから得られる情報は多い。
土肥家家臣有澤図書助宛の上杉景勝書状の花押(写真左)、『土肥家記』所収文書(写真右)は花押影は形状が異なっており(『上越市史』の花押分類で左がa型、右がb型)、花押影(b型)の下に「景勝ノ御判少様子替リ如此ナルモ有之」と書入れがある。
景勝が花押を変更(a型→b型)したのは天正12年の秀吉への臣従が要因のひとつとも考えられる。が、現在、土肥美作守宛は天正11年に比定されており、写しであるがb型の初見となる。
滑川市立博物館、駅から徒歩1時間ちょっと。かなり高所で駅からコミュニティバス(100円はありがたい)で行った。当然、駅に戻ってこなければならず、帰りもコミュニティバス頼み。
で、かんじんの開館時間が10時と遅めなため、12:00滑川駅前発、帰りは14:59博物館発一択。
3時間ほど館に滞留することになったが、幸い企画展示見終えるの2時間以上費やしてしまった。
地方のコミュニティバスは大抵マイクロ、あるいは乗合いタクシーみたいなやつが多い。地元の方の足でもあるので、乗車できるかどうかいつも緊張する。まあ、常に満席になるようだったら、もう少し大きめの車両に変えるか便数増やしているだろうけど。
滑川市立博物館「越中土肥氏が駆け抜けた戦国」
上杉vs織田の越中攻防を経て、上杉家の移封に従い庄内へ。さらに最上氏に仕えたものの権力闘争に見舞われ、主従離散。加賀藩に仕えた元家老有沢氏によって『土肥家記』が編纂されるまで。
第一会場はひたすら『土肥家記』写真版パネル展示、翻刻、解説。
第二会場は土肥氏関連史跡の出土物、文書(土肥氏、有沢氏、景勝、須田満親、佐々成政)、土肥氏関連史跡紹介。
撮影可(一部不可)、図録有り。
正直言って、そこまで期待はしていなかったが、当たりだった🎯
図録があるのも予想外だった。
これ、もう少し宣伝必要じゃない?
目的地の営業開始が遅いので、時間調整で安田城址へ。
秀吉が佐々成政を攻めた際に拠点のひとつとなりました。土塁、堀が復元されています。併設の資料館では安田、願海寺、新庄の各城跡発掘写真や出土物展示。富山県内主要城郭の城ごとの解説シートも配布されています。上杉関係の城いただきました。
安田城址、土塁をくり抜いてトイレ🚾作ったのか。小田城と同じだなぁ、と思ったら、発掘復元時に剥ぎ取った土塁断面を展示してありました。失礼いたしました🙇
借景というのも憚られる大パノラマ!
まぁ、地元の方々は見慣れているんだろうけど、家やビルの間から立山連峰が壁のように屹立するのは迫力がありますよ。
日本海有数の湊・岩瀬浜逍遥。
上杉家重臣河田長親によって滅ぼされた大村城主轡田豊後を葬ったとする精霊塚。大村城攻めの際、上杉方陣地と伝わる"そうけ塚"。謙信本陣とあるが、天正6年では時期が合わない。おそらく河田長親率いる上杉軍だろう。
轡田氏の居城大村城址。今はお寺だけど、周囲を水路が走っている。当時の濠の名残か。
轡田豊後の化物退治の伝説・飛び団子と熊野地蔵。
轡田豊後は地元のヒーローだったのかもしれない。
約3年ぶりの富山。蜷川さん以来かな。
富山市郷土博物館「武士の手紙」
佐々成政禁制、小早川秀秋宛、加藤清正宛の秀吉朱印状のほか、富山(外山)初見の吉見詮頼寄進状は、桃井直常討伐の戦功で詮頼の父親が貰った土地を寄進したもの。
お母さんの好物は?と聞かれて米子が「がんもどき」と答える。
魯山人が「ひろうず(ひりょうず?)」と言う。
関西地方でのがんもどきの呼称らしい。
写真(右)は、豊橋の居酒屋でいただいた「飛龍頭」。
そのままのやつと、出汁に浸したやつ。この時は後者をいただいた。
#魯山人のかまど