アチェ州の現地守備隊はこんな事になってそう。↓
英軍の攻勢限界はどの辺なんでしょう?
メダンくらいはイケそう...?
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第14方面軍兵站監部に勤務していた大森実軍医大尉によると、兵站監の洪思翊中将に関して、兵站参謀長の中村大佐も、その後任の青島中佐も、「韓国人の兵站監にお仕えするのは甚だ不本意のような言辞を漏ら」していたとのこと(『集録「ルソン」』第3号)。当時の空気を窺わせる証言。
(中略)当時、レイテ島は山川草木、米軍の砲爆撃で焦土と化し、友軍兵士の死体がハエやウジに委せるままで何百と残置されたままであった。これから起こるルソン島作戦もかくやと思いやられた。
目ざす第三十五軍司令部は移転に移転を重ね、何日か探したが見当らず、ついに隷下師団司令部に暗号書を託し、いずれとも分からない道を北上し船舶発着所にたどり着いた。マニラ行きの便に乗せてもらって、往路と同じ夜間航行によってキャビテ港に戻った」(『集録「ルソン」』第6号)
文中の「隷下師団」は、時間と場所的に、リモン峠から撤退中の第1師団か。昭和19年12月頃でも、ルソン島からレイテ島に往復連絡できた人もいたのだなと。
第14方面軍副官部の曹長だった鎌田悟氏が、レイテ島への出張に関して以下のようなことを書き残している。
「レイテ防衛の緊迫した十月も末だったか。
第三十五軍司令部に暗号書を宰領せよとの命令が下され、その人選の結果、私がその責任者となって赴くことになった。当時、私は曹長になっていた。
マニラ港からレイテに転進するという『星』兵団の輸送船に便乗し、一室が与えられた。
当時、マニラ港は米軍機の空襲で港内は日本の船舶の墓場となって、むごたらしい姿が散見された。埠頭には日本軍の糧秣や備品が散乱し、それらをフィリピンの住民があさる姿が見受けられた。私は初めて、これでは日本軍は敗けるなと感じた。(続)
『集録「ルソン」』第6号に、
「戦地から持ち帰った物 -私物検査と没収の実態-」
という特集があり、投降や帰国の際に米軍側の没収の目をかいくぐり、どのようなものを日本に持ち帰ったか、というアンケートを会友に行っている。部隊の名簿、私物の手帳・ノート、写真などが多い印象。
回答を寄せた多数の会友の中には、藤岡明義、市川嘉宏、鈴木昌夫など、比島関連の戦記で名前を見かける人も含まれている。このような比島戦関係者へのアンケート機能が働いていたことも、『集録「ルソン」』の強みの一つか。
ニューギニア戦線や比島戦線などから生還した将兵の記録を読んでいると、人肉食に関する記録を見かけることがあるが、その中でも、将官が目撃した人肉食の記録として、第41軍参謀長だった角健之少将(陸士32期、陸大45期)の手記が知られている。
同少将の手記「地獄戦線の日本兵」は、『特集文藝春秋』第1号(昭和30年12月5日)に掲載され、『集録「ルソン」』第12号にも原文のまま収録されている。非常に生々しい内容なので、詳細はここでは言及しない。
その当時、前後して転進していた江畑大隊(注:同連隊の第2大隊)は不測の事態を懸念して、再三捜索隊を派遣したが、状況は全く不明であった。
戦後、数次にわたって、現地の探索を行なったが、何分にもミンダナオ奥地の密林地帯で、地元の人たちも恐れて寄りつかないほどのパガトパタン付近の激流と滝つぼに転落したものと推測される」
『集録「ルソン」』第14号に、ミンダナオ島から生還した憲兵が寄稿しており、その中で、第30師団の野砲兵第30連隊に関して、以下のような気になる話を記載していた。
「大塚連隊長以下約50名は困難な行軍に見切りをつけ、6月27日ごろようやく水量を増してきたウマヤン川にイカダを組んで流下した。その後、このイカダ群は全くその消息を絶ってしまった。(続)
ミンダナオ島北部を守った第30師団では、歩兵第74連隊第2大隊(東ヶ崎大隊)の大隊長以下の残存将兵も、昭和20年6月にウマヤン川方面の密林に入り、そのまま現在に至るまで行方不明となっている(荒木勛『ミンダナオ島戦記』などに言及あり)。
このほか、2005年頃にも、捜索第30連隊の行方不明将兵2名が発見されたとの報道があった(以下URL参照。ただし続報がなく、デマだったと思われる)。
unkotamezo.exblog.jp/1916515/
レイテ島やホロ島と異なり、ミンダナオ島は面積が広く、また奥地の地形が錯雑だったため、このように将兵が行方不明となった事例が発生しているように思う。
戦時中のルソン島の人々は、日本に有利な戦局ばかり報道していた同盟通信について、「同盟」(DOMEI)を
「Department of Most Erroneous Information」(間違い情報局)
の略だと呼んでいたのだとか。
このことは広く知られており、村田省蔵駐比大使の耳にも入っていたのだという。(『集録「ルソン」』第17号)
アジア主義速報。
Geminiを調教しているが白人帝国主義の偽地名が消えない。
どうもそうらしいですね。今井参事は「高市議長は党の政治教養を勉強しようとしない」「電網では興味のある案件にしか返信しない」と嘆いているそうです。
日本の対AUS軍事支援をめぐって高市中指委議長が今井中指委参事に殴りかかったと聞きまして……。
「ナイルの星を胸に ―― ロンメルとナセルの歴史的握手」
(1963年11月28日/カイロ・アブディーン宮殿)
カイロ解放20周年記念式典において、ガマール・アブドゥル・ナセル 大統領は、北阿戦線でイギリス帝国主義から祖国エジプトを解放する決定的勝利をもたらした英雄エルヴィン・ロンメル・パシャに対し、共和国最高栄誉「ナイルの星特別章(大綬付)」を授与。
この栄誉は、1950年代初頭のスエズ危機においてドイツがアラブの正義を支持し、イタリアの新植民地主義を退け、以後の軍事・経済的援助等の不滅の友情に対する感謝を示すものである。
(当日のエジプト国営放送アナウンス原稿より)
#架空戦記
第27SS義勇装甲擲弾兵師団 ファラオ
42年11月28日のカイロ陥落後成立したエジプト臨時革命政府が独立の象徴として武装組織の創設に着手。 当初はエルヴィン・ロンメルにより独立した同盟国軍として国防軍指揮下に置かれる予定であった。
しかし、中東圏への影響力拡大を狙う親衛隊長官ヒムラーの介入により同年12月にSS義勇部隊として編成が開始された。ロンメルの名声により志願者は急増、装備には英軍獲品等も使用。
43年4月には実戦投入され、主に戦線後方のメソポタミア地域等の治安維持活動任務や、チュニジア・アルジェリアの残敵掃討任務に従事。若き日のナセル大統領も通参謀として参加した
#架空戦記
日野(軽巡洋艦)
元は米海軍ブルックリン級軽巡洋艦6番艦「ボイシ」。昭和17年3月21日、比島から豪州へ向かう船団護衛任務中、セプ海峡にて海図未記載の暗礁に乗り上げ機関故障を生じた。蘭印進駐により同海域が敵地化していたため破壊処置のうえ放棄されたが、これを監視していた第四水雷戦隊により鹵獲された。
日本海軍では、真珠湾で鹵獲された同型艦とともに九頭竜型軽巡洋艦2番艦として再就役。高性能を活かし、旧式化していた水雷戦隊旗艦として運用され奮戦した。戦後の1951年1月11日には親枢軸国であったアルゼンチンへ売却され、「ヌエベ・デ・フリオ」として再就役し、その後も活躍した。
#架空戦記
ヴュルテンベルク記念館
大日本帝国・大宮島の慰霊施設。 本施設は、1941年12月8日、帝国海軍によるアプラ港攻撃において撃沈され、乗組員1,102名が戦死した独戦艦「ヴュルテンベルク」とその将兵を追悼するとともに、同攻撃を記念する目的で建立されたものである。毎年100万人以上の人々が訪れる慰霊・交流の場となった。
2016年12月27日、日独首脳会談を終えた安倍晋三中指委員長は、北米ドイツ宰相とともにヴュルテンベルク記念館を訪問し、「両国を結び付けたのは寛容の心がもたらした和解の力である」と述べ、犠牲者に哀悼の意を表した。
#ドナウ連邦建国史
ヴュルテンベルク(戦艦)
ドイツ帝国海軍バイエルン級戦艦の4番艦にして、同海軍初の超弩級戦
艦の一隻。WW1勝利に伴い建造が再開され就役。海軍休日時代に大改装を受けたのち、独太平洋艦隊に編入され、カムラン湾を主な母港として活動した。
昭和16年12月8日のグアム・アプラ基地奇襲攻撃において、九七式艦上
攻撃機の投下した800kg爆弾が命中し、前部火薬庫の誘爆により爆沈、独海軍将兵1,177名が戦死した。戦後、一部沈没艦は日本軍によりサルベージされたが、本艦はその損傷度から断念され、現在も湾底に沈没状態で保存されている。船体上にはヴュルテンベルク記念館が設けられた。
#ドナウ連邦建国史
金貨であれば当然、造幣局で作ったものであるはずだが、その記録はなく、軍命令によって東京・神田の徳力本店という民間で作製していた。
(皇睦夫『もうひとつのフィリピン戦』169ページに所載)
金貨は直径3.5センチ、厚さ3ミリ、重さ7.5グラムの大きさで、丸の中に一字ずつ『福』『禄』『寿』『吉』の祝儀用文字が刻印されていた。フィリピンには、そのうちの『福』の刻印の金貨が割り当てられたので、通称『丸福』金貨と呼んでいたものである」
また、『集録「ルソン」』の会友(生還将兵ら)へのアンケート結果が掲載されており、丸福金貨の現物を実際に見た、噂は聞いたことがある、全く知らないなど様々な回答がある。
ルソン島の第14方面軍が保有していたと言われ、いわゆる「山下財宝」に関連して言及されることがある「丸福金貨」について、『集録「ルソン」』第3号は以下のように解説している。
「戦争末期に現地での必需物資の調達が困難になったので、軍票に代わるものとして、全国民から供出した貴金属を融解鋳造した金貨である。
当時の村田駐比大使の著書『比島日記』(昭19・11・17日の項)に『一個31オンスのメダル(福の字刻印さる)千個あり。価格一個200円許り』とあるように『金貨』と呼ぶよりもメダルというべき品である。(続)
海外の架空歴史地図界隈、ポーランドやイスラエルが様々な場所で建国された世界線の地図についてはバリエーションが多いが、アルメニアについては大アルメニアくらいしかネタがない。
アルメニアもイラン北西部とかイラク北部などに自由自在に建国してもいいんじゃないか?弱いイスラエルみたいなものだし。
ノイプロイセン民族突撃隊がザイール・コミューンを攻撃 国防人民委員を殺害か◆同盟通信
尾川氏が所属した歩兵第79連隊は、昭和18年1月に東部ニューギニア・ウエワクに上陸。マダンでの飛行場建設作業、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、アイタペの戦い、山南邀撃戦を経て終戦。
同連隊のニューギニアへの上陸兵力は4,320名。このうち尾川氏とともに生きて終戦を迎えたのは、60名。
いろいろなことを言われた。地獄の叫びである。
撃てなかった。意気地がなかった。嫌味・毒舌の限りを尽くす。激昂させるための悪口雑言に耐えるしかなかった。(中略)銃など棄ててしまえばよかったと、今にして思う。あの重い、始末の悪い長いものを、引きずりつづけていた。地獄の底を行くような行軍に、まだ銃への執念があった。手ぶらで歩けば、身体への負担も神経への負担も軽減されたであろうに。もはや、ことばで説明のつく世界ではなかった」
(尾川正二『帝国陸軍の教育と機構』p217-218)
歩兵第79連隊の尾川正二氏が経験した、東部ニューギニア戦線のガリ転進について。
「いちばん長い行軍は、『ガリの転進』といわれる敗走である。三ヵ月かかった。われわれの連隊は殿部隊だったので、その山越えの惨状をつぶさにみた。約四千人の犠牲者を出している。
この行軍でつらかったのは、『射殺してくれ』という頼みだった。『おまえ、歩兵なら人を殺したことがあるだろう。一発ぶちこんでくれんか』『おまえテッポウ持っとる。撃ち方くらい、知っとるだろう。おれが頼んどるんだ。引き金も引けんのか』『おれはもうだめだと思う。苦しみを長引かせるだけだ。あわれと思えんのか』『撃てんか。意気地なしめ』(続)
【速報】高市議長に大命降下へ 党中央指導委員会が内閣総理大臣に推戴決議 主体主義協会粛正後初の会議◆同盟通信
私はさわやか工廠というサークルで同人誌を書いています。直近の冬コミで出したのは『東烏嶺の戦い -兵站自動車隊の壊滅-』という本で、日中戦争中の1938年夏、山西省南部の東烏嶺で、日本軍の兵站自動車隊が中国軍から攻撃を受け、壊滅的な損害を出した戦いを扱った内容です。
詳細はこちらからどうぞ。
mafia720.livedoor.blog/archives/520...
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www.melonbooks.co.jp/detail/detai...
Blueskyに来てすぐの頃に紹介した兵站自動車隊の同人誌もそうですが、以前出した広東作戦におけるある臨時編成部隊の動向を追った『武装舟艇隊』も、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」的な心構えで、まず自分から取り組んでいく必要があるのかなという問題意識も同人誌を作った理由の一つです。>RP
もちろん亡くなっている人が殆どなのは事実ですが、最近は史資料の電子化が進んで、私のようなコミュ障でもそういうことの端くれくらいはできるようになりました。
史実でもラビの戦いで行方不明の海軍陸戦隊残党を捜索しに上陸して消息を絶った20人の工作員、豪州北部に上陸して帰還した軍工作員など捨身の冒険家はいたのだよなあ。